2018年1月22日月曜日

【週刊コラム】一滴の朝露、映るセカイ【第50回】

・職場の友達から土産を貰ったよ(韓国に行ってきたそうな...)

今年も早いもので始まってもう3週間になるのですが、2018年初の週刊コラムをようやっと書きたいと思います。本日のテーマは一応歴史です^^

・端折られている話
「端折る」という言葉がある。省略するとかそういう意味でだいたいこの言葉は使われるのだけど、そもそもこれを多くの人は「はしょる」と発音するだろう。しかし元々は「はしおる」であり、それが音変化したのが今の言葉ということになる。言わば端折るという言葉自体が発音上端折られた言葉のようなものなのだ。

・現在の小枝橋

たとえば昔話を思い出して貰えれば分かり易いと思うのだけど、人の話というものは往々にして端折られているといっても過言ではない。先日の街歩きイベントで若林さんからこんな話を聞いた。鳥羽伏見の戦いが下鳥羽の小枝橋の付近で始まった...というのは有名な話だが、実は小枝橋で戦闘行為があったのではない。

・鳥羽での戦闘を描いた絵画(先日のイベントで城南宮の宮司さんが見せてくれた)

小枝橋の近くに布陣していた薩摩藩兵がアームストロング砲を打っ放し炸裂、そして戦闘行為が始まった...というのが実体であるし、もう1つ言えば両軍は川を挟んで対峙していたのではない。だが当時洛中に住む人たちには「小枝橋で戦闘行為が始まった」と流布したようであり、そうした経緯から今も勘違いしている人が多いということのようだ。



今も昔も人の話とはいい加減なものだ。聞いた話は端折られていると同時にしばしば尾ひれはひれが付けられる。それは時に意図的であり時に無意識になのだけど、とどのつまり伝播の過程で全く別の話になってしまうことすらも珍しくないのである。だから聞き手には「精査する」という能力が必要になる。嘘を吐かない人はいないし、間違いを伝えない人はいない。そういう大前提で僕らは人の話を聞いたほうがいいのだろう。
------------------------------------------



ジャーナリストである僕が聞き手の心得を語るのはおかしな話かもしれませんが、伝える人だからこそ聞き手としての能力が必要だというのが僕のモットーですからね。だってどんな大きなマスメディアであったとしても、どんな著名なジャーナリストであったとしても、それらはそもそも聞き手である必要がるわけですから。聞き手として誰よりも真相究明に尽力する。僕の思うジャーナリスト像はそんなものです。ということで僕は今年も圧力に屈することなく戦って参りますので皆様どうかご支援をお願いします。そんなところではありますが、本日はこれにて失礼したいと思います。ジベリ!

0 件のコメント: