2025年12月29日月曜日

憂鬱は続くよどこまでも

 

・トンちゃん。

日々とは憂鬱の繰り返しである。憂鬱とうまく付き合っていくのが「生きていく」ということだ。精神世界の疲れもそうなのだろうが今はそれ以上の問題を抱えているようだ。体調がよくないのである。何年かに一度だが僕は年末年始に体調を崩すのだけど今年はどうやらその一度に当たるようだ。昨晩くらいからどうも悪寒がする。何とか仕事にこそ行ってきたが、生配信も出来そうもない。

・ステーキガストにて。

肉食えば治ると聞いたのでとりあえず今夜は肉を食う。焼いた肉には栄養があると聞く。年内はもう休みがない。あっという間の1年だったなと1年を振り返る。

・道後温泉

今年は久々に生まれ故郷の松山にも足を運んだ。もはや「帰った」ではない。随分と遠い場所である。ともあれできれば1年に一度くらいは足を運んでおこうとも思うようになった。家族問題など諸々致し方なかったとはいえ、やはり多少罪悪感はあるのだ。

あとはYouTubeか。何とか年内に600は超えられた。まだまだ小さなチャンネルだが、熱心な視聴者もじわじわと増えてきた。ちょっと物書きはサボりがちだったのでそこは来年への課題としたい。早いもので上洛して来年で19年、なんとその翌年には20周年を迎える。「物書き」として何ができるか、何を伝えたいのか、そんな原点を回帰すべく、来年はこれまでの日々を今一度振り返るような場所として、このブログを活用できればと思っている。

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・とある日の撮影風景

YouTubeは結局生配信が主体みたくなってます。これでいいのか悪いのかは分かりませんが、とかく現時点でのキラーコンテンツですしw ゆる〜い番組なんで気が向いたときに皆様観に来て下さい。(やや下ネタ注意かもw)それでは今年もご愛読ありがとうございました。ジベリ!

2025年11月24日月曜日

憂鬱の秋

 

・安楽寿院の猫たち

秋である。それにしても秋である。木々が赤く染まる秋である。読書の、食欲の、スポーツの秋である。そして僕にとっては憂鬱の秋である。

・秋色に染まる。

そもそも秋とは憂鬱だ。ピンク色に街を染めた木々が緑に燃え上がり、赤くなり枯れていく。秋とは最期の一花だ。終わりよければ全てよしとは言うが、また季節は巡る。繰り返す。僕は今年も燻っていたように思う。果たして僕は花開くのだろうか。それとも僕とはこういう花なのか。途方に暮れる秋である。

・美味である。

楽しくないわけではない。寧ろ年々楽しく感じることもある。身体はますます鈍くなり相変わらずあちこちに体をぶつけるし、物忘れも以前に増したがそれでも楽しみは尽きない。酒も食べ物も旨いし、YouTubeもやや軌道に乗り出した。家出したアシスタント(もとい彼女)も同じようにどこかで楽しんでいてくれたらいいのだが、確かめる術がない。祈るのみである。

・結局回転喫茶では紅茶を頂いた

秋色の須磨山頂遊園もなかなかによかった。山小屋では酒も頂いたし葉巻も吸った。そもそもはコーヒーを飲みにきた筈だったのだがまぁいい。寄り道こそが人生の醍醐味だ。目的地に着くことはそのおまけに過ぎない。さて今日はこれから、そして明日も明日とてどこに寄り道しようか。憂鬱を引き連れて旅を続けよう。

2025年9月25日木曜日

時と戯れる日々

・どんよりした空

 野暮用で今日は河原町に来ている。人に会う予定もあるのだが些か早く着きすぎた。あと着いてから忘れ物に気付いたが時すでに遅し。まぁ年内にまた会うだろうし構わないのだがそれにつけても最近は物忘れが激しすぎる。(相変わらず体幹も良くなくてあちこちで体をぶつけているという点も付随しておく。)

・わりと久々のサンマルク。

僕の特技の一つは時間潰しだ。しかし時間潰しというのがどうも語感が悪い。なんかポジティブな言い換えをと思いついたのがタイトルの「時と戯れる」だ。(生配信でも昔言った気がするw)これなら悪い気がしない。誰だったかが「人生は死ぬまでの暇つぶし」なんて言っていた気がするが、やはりこれもネガティブに感じる。死ぬまでの戯れというなら少しは前向きではないか。それに気取らないで済む。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉は勿論嫌いではないが些か肩苦しいではないか。戯れとは言っても生半可にはやりはしない。全力で遊ぶのだ。そして休むときは大いに休む。(個人的にこれがいまひとつ上手くないのが難点ではあるのだが...)

僕の好きなバンドの隠れた名曲で「ひょうひょうと」というのがある。歌詞を一部抜粋する。

ひょうひょうと青空を漂う雲は魂か 無情を切り裂いて 駆け出す俺は風の中 赤子のように お前を呼ぶ 赤き血のもとに(引用終わり)

ひょうひょうとしていたいものだなと時々思う。漂うのも悪くはないかと。「いざ」というそのときに戦えばいいのだ。さて、ぼちぼち店を出ようか。




2025年8月31日日曜日

8月31日の夢と憂鬱

 1年の中には何日か魔法めいたものを帯びた日にちがある。たとえばクリスマスイブだったり祇園祭の夜だったり。そんな1日のうちの1日が今日8月31日である。夏の魔物だとか運命の悪戯だとか、なんかそんなものが機能しそうに思う日なのだ。勿論大方結局は何もない。ロマンスもなければ運命もやんちゃをしない。だけどもなんともソワソワする。そしてそのソワソワこそがこの日の醍醐味なのだ。ソワソワこそがただの日常を彩るのだ。


今年も今日は仕事だった。仕事終わりに銭湯に浸かり酒を飲み今に至る。これから映画を観る。わりと充実した1日だ。しかしただの日常である。宿題に追われないしアバンチュールもない。しかしフジファブリックの志村さんがあの名曲の中で言っていたあの頃のような寂しさはある。ともあれ随分と夏は長くなった。短いのは春と秋であとは夏か冬かだ。まだまだ夏は続くのだ。それまでに夢物語もどうか訪れてくれ。かなわないならスウィートノベンバーでもいいしクリスマスの奇跡でもいい。我々は何かしら夢を追わねばならないし、追うことを目標にしてもいけない。我らが阪神タイガースは優勝間近。そして僕らの人生には消化試合なんざ一つもない。まだまだ戦いは続くったら続くのだ。

2025年8月25日月曜日

敗戦の日に寄せて(2025)

・昨晩は沖縄料理屋で呑んだ。

数日遅れましたが今年もこの寄稿文を書きます。少しばかり連勤で忙しかったのです。最近は家に帰るとすぐに寝てしまうもので。今年は戦後80年の節目に当たります。

日本のいちばんキショい日

敗戦から80年の節目に当たり、僕は改めて思ったことがある。どうにも日本人というのは一度決まったことを覆すという作業が苦手なのではないか。もっと言えば一度決まったことに反対するのは悪だと思っているのではないか。最近またそんなことを考えるようになったきっかけの一つは万博である。国政政党で万博反対の声を今に至るまで上げているのはれいわ新選組くらいである。今回の万博をめぐっては工事の遅れや不払い金の問題や基準値超えのメタンガスのことなど開幕前から山ほど問題点があり、そして案の定特に開幕直後はトラブルが絶えなかった。しかしながら今回の万博の何が一番の問題かというと、それが半ばカジノの前座のように開催されているということなのだ。実際にその動きは早い。なんと開幕まもない4月14日にはIR建設に向けた工事がはじまることを全国紙が報じている。こんな馬鹿げたことがあるだろうか。というかここまで馬鹿にされてそれでも本質に気付かない多くの人々に心から辟易としてしまう。

思えばオリンピックのときもそうだった。もうどう考えても平常の開催は困難であったにもかかわらず中止の決断をすることはなくイベントは取り行われ、そして終わったあともその総括すらしていない。(しかしながら汚職を巡る裁判自体は今も続いている。)やはりこのときも反対派は冷ややかな目を浴びた。小学校来の親友とも意見が合わず、あれ以来些か距離が出来てしまった。


翻ってあの戦争について考える。どこで道を間違えたのか。リルートの機会はなかったのか。その総括は十分なのか。これらを追求しなければ真の戦後は訪れないし、この国はまた同じ過ちを繰り返すのではないか。改めて言う。「終戦」ではなく「敗戦」だ。我々は策を誤り負けた。その事実から逃げてはいけない。とあるサッカー漫画の名言を引用するなれば、我々に必要なのは敗北と向き合い絶望できる強さなのではないか。戦後はまさに絶望からのスタートだったはずだ。我々はそれを忘れてはいまいか。過ちを繰り返さないためにもう一度敗戦を直視しないか。80年の節目に僕はそんなことを考えている。民主主義とは多数決の全権委任ではない。為政者の軌道修正ができる民意のことである。我々こそが主権者なのだから。


2025.08.25

志士会代表、天王寺センイチ

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・楠公さんの夏祭りに来たよ。

ちなみにこれを書くに当たって色々と試行錯誤している最中、ふと1945年の80年前ていつになるのかと計算してみたのです。1865年は慶応元年、つまりは明治維新前夜ということになるのです。いわゆる薩長幕府て実は80年足らずの命だったのですね。尤も薩長幕府はその後横田幕府と名前を変えて今も続いているのですが、何れにせよ我々は今一度「敗戦」と向き合うべきだと思うのです。前にも言いましたが民主主義ってめんどくさいんですって。でもその手間を省いちゃいけないんです。気がついたら取り返しのつかないことになりかねませんから。些か説教じみた内容ですみません。「先生」と呼ばれる生き物の悪い癖だと思って下さい。それでは本日はこれにて失礼致します。ジベリ!

2025年8月3日日曜日

鬼滅の刃無限城篇第一章

・僕はぎゆしの推しです

やっと観に行けました。なんか特典みたいなのは貰えませんでしたが、そんなもんどうでもいいくらいに感動しましたし最高に楽しめました。2時間半(予告編などを含むと実質3時間)を感じさせないくらいに全集中してましたよw

・遅めの外出

原作だと良くも悪くも端折られてたモブ鬼&モブ隊士たちにも一応の見せ場はあり、特にモブ最強との定評もある村田さんは水の呼吸をちゃんと使ってます。(勿論エフェクトは薄めですがw)

あとは無限城篇影のMVPこと愈史郎君も魅せてくれます。「人に与えないものはいずれ人から何も貰えなくなる」という一言は数ある漫画の名言の中でも屈指の名言だと改めて思いましたね。ちなみにこの台詞には続きがあります。曰く「欲しがるばかりの奴は結局何も持ってないのと同じ。自分では何も生み出せないから」と。炭治郎君ら同期組と切磋琢磨し、柱たちと死線をくぐり抜けてきた善逸は師匠に言われたように一つの型を極めていき、そして新たな型を生み出すまでに至ったのに対して兄弟子は最後まで自分のことだけを考えて生きていた。鬼となり何も遺せず消えていったのは必然だったのでしょう。あそこまで利己的な人間は現実にはあまりいないでしょうが、似たような人は少なからずいますね。反面教師にしたいものです。


しかしながらやはり今作の主役は猗窩座もとい狛治君ですね。その昔僕は猗窩座の声優を中村悠一さんと予想してたんですが、今回の過去篇を観てからは特に石田彰さんがこのキャラに命を与えてくれてよかったなと改めて思ったものです。(ちなみに中村悠一さんという予想は今回の劇場版で思わぬ形で回収されましたw)

・かなフィムの誕生日会でパスタ作った俺家庭的


一足先に映画を観ていたかなフィムからは「絶対泣く」と言われてたのですが案の定中盤からは泣きっぱなしでしたw 猗窩座の死は原作時は寿退社なんて揶揄もされていたようですが、堕姫&鬼いちゃんとともにこのカップルも幸せになって貰いたいものです。(勿論狛治のお父さんと道場の師範も込みで。)

・義勇さん義勇さん義勇さん義勇さん

しかし今回の映画、誰が〇〇億の男と比喩されるのでしょう。善逸人気をストップ高に押し上げたのは間違いなくあの戦闘でしたが猗窩座vs義勇さん&炭治郎ペアの戦闘がメインっちゃあメインだし...。というか改めて義勇さん強すぎるしカッコ良すぎるでしょ。今回の収益を猗窩座の結婚祝いにするのもありっちゃあアリーベデルチですが、義勇さん推しとしては義勇さんを億超えの男にしたい気持ちも山々すぎて富士山なワケで。まぁ少なくともあと2回くらいは映画館行きますよ。そんくらい最高でした。ちな今日はこのあと生配信やります。皆様YouTubeで逢いましょう。ジベリ!

2025年6月24日火曜日

再び憂鬱について。

・雨の楠公さん

6月は憂鬱の季節だ。つまり我々物書きにとってはベストシーズンである。しかし憂鬱という字面は何とかならないものか。とりわけ鬱という字の難しさだ。こんな字を書いていたら余計に鬱蒼としてしまう。もう少し簡単な字面に出来なかったのか。

・昨晩からまた明石にいる

しかし改めて憂鬱とは何だろうか。6月だから憂鬱なのか、憂鬱だから6月なのか。空がどんよりしているから憂鬱なのか。好きな女の子といちゃつけないから憂鬱なのか。そもそも憂鬱について考えるから憂鬱なのかもしれない。かの芥川龍之介は「ただぼんやりとした不安」を理由に自ら命を断ったという。憂鬱もまたぼんやりとしている。憂鬱を抱えながら我々は生きている。みんな偉いじゃないか。生きているだけでみんな偉い。死ぬまで生きる。それはとてつもなく偉いことなんだろう。みんなを、そして自分を褒めてやりたい。