2012年8月15日水曜日

石橋湛山の思想

皆さんご存知のとおり、今日は終戦記念日(というか敗戦日と呼ぶべきかと...)です。前回は日本が「15年戦争」につき進んでいく前後の2つの事件についてお話しました。流れで行くと今日からはいよいよ本題の大東亜戦争の話しになるのですが、今回の内容は若干スピンオフ的な位置づけになるかもしれません。皆さんは石橋湛山をご存知でしょうか?戦後短い間ではあるものの首相を務めたことのある人物なのですが恐らく殆どの人は彼のやったことはおろか、名前さえも知らないのではないかな?と思います。例の山川出版の日本史の教科書(2005年版)を念のため読み返してみましたが、365ページに‘公職追放から復帰した大物政治家’の一人として名前がチラッと出ているのみで、何をしたのかは全く書かれていない始末でした。しかし彼の思想は当時日本がとるべきであった指針の一つであったと言えますし、加えて混迷する今日の日本にとっても非常に有意義なヒントを与えてくれるものなのです。

1、生い立ちと略歴
石橋湛山は明治維新から20年ほど後の1884年、東京都の麻生区(今の港区)で日蓮宗の檀家に生まれます。幼少期を郷里である山梨で過ごした彼は1904年に早稲田大学の文学部哲学科に入学。そこでシカゴ大学でジョン・デューイ(経験主義的教育の第一人者であり、教育や公共哲学を学ぶ人間であれば必ず知っている人物)に師事していた経歴を持つ田中王堂に出会い、大きな感銘を受けたそうです。大学を首席で卒業した彼はその後1年間、特待研究生として宗教研究科に進学します。そして1908年には一度横浜毎日新聞社(現在の毎日新聞とは別のもの。因みに現在の毎日新聞社の前身は大阪毎日新聞)に入社しますがわずか1年で退職。その後、1年間の軍属を経て次は東洋経済新報社に入社、そこでジャーナリストとして頭角を現します。いわゆる大正デモクラシーにおいて吉野作造らとともにそのオピニオンリーダーとなり、論壇を大いに賑わせた彼は、その後戦中も一貫して日本の領土拡大政策や官僚主義に反対し、決して政府の抑圧に屈することはありませんでした。

戦後は吉田茂内閣のもとで大蔵大臣を務めますが、進駐軍の経費問題(アメリカは賠償として進駐軍のゴルフ場や邸宅建設の費用や贅沢品の経費などもせしめ取っており、それらの合計は国家予算の3分の1に相当した。)などでGHQと衝突した角で、就任から1年後の1947年には公職追放を受けることとなります。(表向きは東洋経済新報が帝国主義を助長していたという荒唐無稽な理由でしたが...)その後51年に公職追放が解かれて政界復帰したのちは鳩山一郎内閣の下で次は通産大臣を務めることとなり、そこでは中国やソ連との国交回復に向けて水面下で交渉を始めていました。

そして56年12月の総裁選に出馬した彼は初出馬にして決選投票で岸信介を破って見事首相に就任します。従米路線の岸信介が首相になることを期待していたアメリカはこのことに大きな衝撃を受け、大統領のアイゼンハワーは狼狽したとも伝えられます。彼は就任すると 「一千億減税・一千億施策」を柱とする積極経済政策と、政官界の綱紀粛正、福祉国家の建設、雇用の増大と生産増加、 国会運営の正常化、世界平和の確立など「五つの誓い」を発表し、翌年初めには全国への遊説を大々的に行いました。自らの所信をまずは国民に伝えようとしたのです。そして同時に有権者の声を積極的に聞いたそうです。民主主義を信条とする彼らしいエピソードと言うことができるでしょう。しかし全国10か所を9日で周るというスケジュールの無理が祟ったのか湛山は帰京後自宅で倒れてしまいます。脳卒中で2ヶ月の絶対安静との診断を受けた彼は「私の政治的良心に従う」として政治空白による混乱を防ぐため潔く退陣の決意を固めました。僅か65日の短命政権でしたが、こうした石橋湛山の姿勢は野党からも多くの賞賛を得ることとなり、社会党の浅沼稲次郎は「政治家はかくありたいもの」と手放しの評価をしています。(敵ながら天晴れというところだったのでしょう。)

それから政治活動を再開するまでに回復した彼は日中及び日ソとの国交正常化に向けて単身奔走し、一個人として異例の訪中・訪ソまで果たします。苦心の末結びつけた「石橋・周共同声明」(1959年)は、のちの国交回復のバイブルとなったとも言われています。その後も自民党内のハト派の重鎮として一定の発言力を持っていた湛山ですが1663年の総選挙では落選、それを機に政界を去ることとなりました。それから10年後の1973年、前年の日中国交正常化を見届けたかのように彼はその生涯に幕を閉じました。(享年89歳)

2、小日本主義
彼の思想の根幹にあるのは帝国主義の批判でした。日本を含む領土拡大を展開する列強を批判し、日本はそうした方針を捨ててこれ以上の領土拡大は勿論、これまで得てきた植民地すらも放棄することを主張したのです。(一切を捨つるの覚悟/1921)忘れてはいけないのは、湛山は何も道徳的意義のみからこうした植民地放棄を主張したのではないということです。植民地経営にかかるコストを鑑みてそうする方が利益になると考えた所以なのです。(大植民地帝国として知られていたイギリスですら19世紀には全体的に見ると植民地経営が赤字化していたと言われており、実際日本も朝鮮については最後まで赤字経営だった。)彼は植民地ではなく人的資本にこそ国家予算を投資するべきだと考えていました。今でこそ‘加工貿易立国’なんて言われている我が国ですが、その方針を示したのも実は他ならぬ石橋湛山だったのです。外に向けた拡大ではなく国内の経済成長を優先すべきである、という彼の主張は小国主義と呼ばれるものであり、当時の国家の主流であった「大日本主義」に対して小日本主義と呼ばれることもあります。

そしてこうした「植民地放棄」にはもう一つの狙いがありました。そのことが国際情勢に与えるインパクトです。日本がそうした姿勢を示せばその影響は他植民地にも飛び火します。そうするとどうでしょう?世界の流れは脱植民地に傾き、日本の国際的発言力も大いに高まると彼は考えていたのです。(大東亜戦争を植民地解放戦争であったと主張する人もいますが、やっぱりそれは一種の結果論であって正当性は希薄です。日本があそこまで広範に戦線を拡大したそもそもの狙いは資源獲得と経済封鎖の打破だったワケですから...。)

3、今日のまとめ
この記事を読んでもらっただけでも分かると思うのですが、石橋湛山の思想は今日でも十二分に通用するような非常に先見性に富んだものだったのです。東アジア共同体の話は別にしても、アジアのパートナーシップを強化することが益々必要になっている今日、産業の空洞化が進行している現在、そして一向に官僚主義から脱却できていない今、まさに石橋湛山が必要なんです。そうした意味においても彼は再評価されるべき人物だと思いますし、こういう人物こそ「国士政治家」と呼ばれて然るべきなのです。それからもう一つこの場で覚えておいてほしいのは、彼のように戦争に反対し、領土を拡大せずとも国家成長が出来ることを理論建てて主張していた人物が居たのだということ。(内村鑑三もお忘れなく!)にもかかわらず、そうした意見を汲み取ることが出来なかった...と。そこが重要なんです。どんな聡明な意見も、それを聞き入れる耳を持たない人の前では全く意味を成さないのです。これは民主主義国で生きる僕らが忘れてはならないことの一つだと言えるでしょう。



次回からはいよいよ大東亜戦争前夜、そして戦中~終戦までの流れを追っていくことになるのですが、明日からはデートということなのでしばらく連載はお休みですw後編は8月末~9月はじめにかけて書きたいと思います。まだ前編が終わっただけということですが、ともあれ読んで頂いてありがとうございます。今日はこれから下鴨の古本祭りに行くのですが、そのあとでもう一つ記事を書く予定です。しばしの間、失礼しますm(_ _)m

ー参考文献ー
・石橋湛山と小国主義(井出孫六:岩波ブックレット)
・冷戦を打ち破り世界平和を模索した石橋湛山首相(前坂俊之)
http://maechan.sakura.ne.jp/japanese_r/data/30.pdf
・石橋湛山記念財団
http://www.ishibashi-mf.org/index.html

2012年8月13日月曜日

2つの事件と関東軍

ということで連載は本編に戻ります。今日のテーマは2つの事件、つまり5・15事件と2・26事件の細評とその意義、そして丁度その頃大陸で半ば暴走状態にあった関東軍とその背景について論じていきたいと思います。

1、問答無用
1932年5月15日、若手の海軍将校らが当時の首相である犬養毅を暗殺するといういわゆる「5・15事件」が勃発するのですが、この背景については教科書にもあまり書かれることはありません。前々回お話したように、満州事変はそもそも関東軍の‘独断’で実行されたものであり、正直なところ緻密な計算があったでも壮大な国家的計画があったでもありませんでした。当時の首相である若槻礼次郎も、そして暗殺された犬養毅もこの軍事行動については批判的で、満州国の認証をしないままでいました。一方軍部やそれに近い軍閥の政治家の多くは満州での関東軍の‘躍進’に歓喜し、更なる中国大陸での攻勢と軍部の権限拡大を求めていました。マスコミは軍部礼賛の傾向を強めており、それに踊らされるかのように国民の多くも更なる戦争を渇望しているきらいがありました。そうした軋轢の中で起こったのがこの事件だったのです。

犬養毅は孫文とも交友があったことなどから分かるように親中派であり満州事変後も水面下で日中の関係改善に勤めていた人物でした。また政党政治の確立に尽力した立役者で、「憲政の神様」と呼ばれることもあったと言います。軍部の政治介入を嫌う犬養首相の存在は軍部にとっては邪魔な存在であり、また満州での利権獲得に躍起になっていた新興の財閥からも疎んじられるところであったといいます。海軍将校らを中心として引き起こされた同事件ですが、武器や資金は思想家の大川周明からの援助など民間で調達されたものであり、その首謀者は実際のところあやふやです。一説によれば財閥や資本家がスポンサーになっていたのではないか?と言われてさえいるのですが、その背景にはこうしたことがあったのです。また、あまり知られていないことですがこの事件には民間人も多く参加しており、犬養毅邸のほかにも警視庁や日本銀行などが襲撃されています。その他農民決死隊なる別働隊が停電を狙って都内の変電所を数カ所襲撃しましたが、設備の一部を壊しただけで停電は引き起こせませんでした。

襲撃に来た青年将校らを犬養毅は「君たちの意見を聞こう。話せば分かる。」と毅然とした態度で出迎えますが、「問答無用」の一言とともに銃撃されてしまいます。勿論犬養毅という人物がまったく問題のない人物で、一貫して軍拡に反対してきた人物かというとそうでもありません。浜口内閣時代に全権の若槻礼次郎をしてロンドン海軍軍縮会議で軍縮を決めてきたとき、「統帥権干犯」を理由に政府を攻撃した中心人物の一人が犬養毅だったのです。(因みにもう一人は鳩山一郎)彼は結果として軍部に統帥権をカードとして使えることを教えてしまい、結局は軍拡を求める彼らを勢い付かせてしまったのです。その後一命を取り留め、一度は回復を見せた犬養首相ですが結局その日の深夜、この世を去ることになりました。享年76歳でした。

現役首相の暗殺という前代未聞の事件にもかかわらず実行犯らには最高で15年の禁固刑が科されたのみで、それ以上の重罰を科せられることはありませんでした。この量刑の甘さがのちの2・26事件を誘発する一因となるのですが、ともあれおよそ8年続いた政党政治はここに終わりを告げることとなり、軍部の発言権を認める挙国一致の内閣が形成されることとなります。

2、北一輝の思想
先述のとおり事件の首謀者が大罪に問われなかったことなどもあってか、軍部の権限拡大はその後も徐々に拡大を強めます。一方政党は死に体にありました。もともと共産主義革命などの‘国体変革’を防止するためのものだったはずの治安維持法は言論の自由を奪うものとなり、そしてそれが政党政治の土壌となる世論を否定するものであるにもかかわらず多くの政治家がむしろこの法律に守られることを欲した結果です。(先述した犬養毅や若槻礼次郎、或いは浜口雄幸といった比較的良識派の政治家でさえ、そうした傾向が皆無だったとは言い切れません。)

そんな中、国家主義運動は軍部のみならず民間でも広がりを見せます。その背景に欧米諸国でのファシズム勢力の拡大があったのは言うまでもないことですが、それとは別の要因があったことは見逃せません。つまるところ、治安維持法などによって‘弾圧’された共産主義ないし社会主義が、国家主義という身ぐるみを纏って台頭してきたのです。北一輝もその一人ではないかと僕は考えます。彼の思想や理念は単純に国家主義で片付けられるものではありません。この時代の国家主義者たちが軒並み天皇の威を借りた錦旗革命を主張したのに対して彼はいわゆる「天皇機関説」に基づく立憲民主制を想定しており、しかも一定以上の私有財産を認めないなど社会主義的な側面も多々あるものでした。三島由紀夫など彼の思想や人物像に興味・関心を持った人は右翼・左翼を問わずして少なくありません。戦前日本の最大の革命家は、実は彼なのやもしれません。(ただ三井財閥などから大金を受け取っていたという話しもあったりして、悠々自適に暮らしていたといいますから、その辺どうにも胡散臭い部分はあるのですが...。因みに彼が1923年に発表した「日本列島改造大綱」は、図らずも戦後アメリカが作成した日本国憲法でその半分以上が実現されることとなります。)

3、二・二六事件
 5・15事件から4年後の1936年冬、ついに事件は起きます。5・15がテロに近い色合いを持ったものだったのに対して2・26は軍主導のある程度計画的なクーデターであったと言えます。陸軍の皇道派(先述の北一輝らの影響を受け、天皇親政の国家改造を目指した派閥)の影響を受けた青年将校らが1000人以上の兵士を率いて首相の岡田啓介を含めた大臣ら数人の襲撃を決行します。邪魔者を排除して皇道派が主権を握り、天皇親政を実現しようと試みたのです。計画ではそののちに財閥のトップの襲撃も想定されていたそうですが、こちらは実行には至りませんでした。(北一輝と三井財閥との関係が何か影響していたのかもしれませんが、ここはあくまで憶測です。)

しかし政府と軍部はこれに共鳴することなく鎮圧に向けて動いたため、クーデターは3日で鎮静化します。事件収束後、実行犯の多くは部隊に帰属するなど、やはり重罰は適用されませんでした。(その後最前線に送り込まれて戦死した者は多かったですが...)しかし‘理論的首謀者’とされた北一輝と西田税(みつぎ)には死罪が言い渡されます。また陸軍内でのパワーバランスにも変化が生じます。事件を主導した皇道派は失脚することとなり、一方東條英機ら統制派の発言権は強まることとなりました。

三島由紀夫を筆頭にこの事件を評価する人も少なくはありませんが、果たしてどうでしょうか?立ち上がった兵士たちの多くは本当に純粋に憂国の意から事件を引き起こしたのだろうとは僕も思います。しかしそれと結果がどうであったかはまた別の話です。2・26事件で犠牲になった人物も犬養毅同様に、どちらかと言えば良識派の人たちでした。恐慌から日本経済を建て直すのに大いに貢献した高橋是清もその一人です。非常に悲しいことですが純粋な人ほど、誰かに利用されて間違った行動を起こしがちですから...。どんなに真摯な思いがあったとしても、それは正確な現状把握を無くすればただ虚しいだけのものになってしまいます。(尤も「滅びの美学」を愛する三島さんは、寧ろそれだからこそ惹かれるものを感じたのかもしれませんが^^;)

4、関東軍と麻薬ビジネス
皆さんそろそろ不思議に思っていると思うのでここでそのことについて説明したいと思います。冒頭で述べたように関東軍は半ば‘暴走’状態にあったワケですが、では彼らの資金源はどこにあったのでしょう?実は麻薬なんです。アヘンを売り捌くことによって得た資金を元手にして軍事行動を遂行していたのです。その中心人物の一人で阿片王の名を冠したのが里見甫(はじめ)でした。彼は戦後の極東軍事裁判(東京裁判)で中国にアヘンを蔓延させた罪を問われ、A級戦犯とされるのですが、本人の「やっていない」という発言を真に受けるかのように、調査もされることなく無罪放免となりました。詳しくはまた後に書きますが、どうやら裏取引をしたようです。(この事実だけでも東京裁判の正当性なんてあったものではないことは明白ですね...。因みに彼が作った満州国通信社は現在の電通の全身となるものです。この辺の関係性についてはまたの機会に改めて説明しますが、とかく満州におけるアヘン権益を巡っては彼のほかにも例えば岸信介や児玉誉士夫といった戦後大きな権力を握った面々が関与しており、つまるところ現在のいわゆる裏社会を構成しているのは実は満州のアヘンを巡る人脈の流れを汲む人たちだったりするのです。

5、今日のまとめ
真相を知れば知るほど何か鬱蒼としてきて決して晴れやかな気分にはならないのですが、ともあれ事実の把握をなくして現状の打破はあり得ないので直視する他はありません。次回はどこをテーマにするかというと、この時代に‘反戦’を理論立てて主張し孤軍奮闘した一人のジャーナリスト(ないし思想家)のお話しを中心にしたいと思います。それでは今日はこの辺で失礼します,ジベリ!

2012年8月12日日曜日

補足:治安維持法改正の細評

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こないだの「普選・治安維持法体制」に関する記事の中で治安維持法の2度の改正について軽く触れたのですが、その細評について教えてほしいというメールが来ていたのでお答えしたいと思います。今回の連載は内容が広範な上に複雑なので、質問などがくればこうして適宜に解説を加えたいと思います。(おそらくこの調子で最後まで殆ど文字ばっかりの連載になると思うのですが、是非とも一読して貰えたらなと思う次第です。)

1、1928年の改正
まず1回目の改正は制定から3年後の1928年に行われます。当時の内閣は陸軍出身で長州閥の田中義一でした因みに同改正案は当初、議会では否決されて不成立となり、その後緊急勅令として枢密院の諮詢(しじゅん)を経て成立するという特殊な経緯を辿ります。勅令に対する多数決は賛成が249に対して反対が170、つまり当時の議会は圧倒的な大多数を以て同改正案を可決したワケではなかったのです。そもそも議会で廃案になった法案を議会の閉会後に緊急勅令として制定する...という手法自体、完全な議会軽視であり、当時も大きな批判を受けるところとなったようです。(昭和天皇も田中内閣の姿勢を批判していたそうな...。)

改正の契機となったのは同年3月15日の共産党に対する一斉摘発でした。(3・15事件)全国で日本共産党員に対する検挙が行われ、およそ1600名が逮捕されたのです。しかし逮捕してみるとその殆どが共産党員ではなく単なる支持者であることが判明したのです。前回説明したとおり、そもそもの治安維持法は「結社」の取り締まりを目的としたものであり、組織に属さない個人を裁くものではなかったのです。

政府は「宣伝」取締法としての治安維持法の作り替えに向けて動き始めます。。ここでのポイントは①刑の引き上げ②目的遂行罪を設けたことの2点になります。①は国体変革を目的として結社を組織した者ないし指導した者に最高で死刑を科すとしたところ。違反者に対して極刑の適用を認めたことから、28年改正については①をクローズアップする人も多いのですが、実際には治安維持法違反のみを理由とした死刑は少なくとも国内では1件もありませんでした。寧ろ重要なのは②なんです。目的遂行材というのはつまるところ、国体変革(つまりは天皇制の否定)・私有財産制度否認を目的とした団体(主に共産党を想定)の運動に付与するとみなされたあらゆる行為を行ったものを処罰できるというものでした。要するに処罰の適用範囲を拡大したのです。(因みに昭和天皇はこの改正案の「死刑」適用の部分について難色を示したとか...。)ともあれ、もともと‘国体変革’というある種抽象的な概念のもとに治安維持法は作られたのであり、解釈によっては無限にその対象を拡大しうるものだったのです。そうした性格の法律が、この改正によって組織に属さない個人にまで向けられることとなったのでした。実際に同改正法は結果としてはむしろ共産党以外の人間に猛威を振るうこととなり、ひいては政党政治そのものの首を絞めることに繋がっていくのでした。

2、幻の35年改正
1930年代にも内務省と司法省は2度にわたって治安維持法の改正案を議会に提出しています。主たる目的の一つは共産党の外郭団体を取り締まることにありました。加えて増加する検挙者への対処として転向政策を盛り込もうという思惑もあったようです。やはりここでも主たる目的は共産党対策にあったのですが、肝心の共産党は宮本顕治らが逮捕された33年のスパイ査問事件などを経て35年に最後の中央委員である袴田里見の検挙によって一応の崩壊を見せます。にもかかわらず治安維持法は膨張を続けました。ここにおいて治安維持法はついに「思想の取り締まり」にまで拡大されます。33年には小林多喜二が逮捕されたのちに築地警察署で虐殺される事件が起こり、また同年には瀧川事件のように公権力が学説に公然と介入するような事態さえ起こり始めます。宗教団体への適用もこの頃より始まり、35年に国家主義運動に参加していた皇道大本が事実上の組織根絶を受けるという事態に発展した(第二次大本教事件)のをきっかけに内務省は「国体を否認する邪教」として多くの宗教団体の取り締まりを断行したのでした。(PL教団の前身であるひとのみち教団」もその一つだった。)これは宗教団体への統制の布石を作ることとなり、のちの宗教団体法制定(1939年)の間接的なきっかけとなるのでした。

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とはいえ、そもそも大本教に治安維持法が適用されたのはあくまで国家主義的運動やファシズム運動の抑制のための適用だったのです。(そして唯一の適用事例でもあるが...)皆さんご存知のとおり、30年代には5・15事件や2・26事件など若手将校や右翼活動家によるクーデターないしテロ行為が頻発した時代だったのですが、そうした者に対して治安維持法を適用する...という改正案が内閣から出されたことがあったのでした。しかし議会では反対意見が根強く、結果としてそれが汲み取られることはありませんでした。背景には恐らく台頭してきた軍部(主に陸軍)の反発を恐れていたところもあったのでしょう。政党政治はここにおいて既に言論の自由の保護者などではなくなっていたのです。(それどころか治安維持法によって自らの身を守ろうと考える者も少なくなかったようです...。)また人民戦線運動への対処の中で、反戦運動や自由主義者さえも治安維持法の適用内と見なす下地がここにおいて形成されます。こうした背景には5.15と2・26の両事件に起因して政党政治が殆ど存在感を失い、内務省や司法省に歯止めをかけられる存在が無くなってしまっていたことも影響していると思われます。ただでさえ脆弱だった日本のデモクラシーは、開花することなく息途絶えたのでした。


3、新治安維持法(1941年改正)
2度目の改正は日米開戦の1941年に行われました。(あまりに大幅な変容から「新治安維持法」としばしば呼ばれることがあります。)この前後に日本はソ連と中立条約を結んでおり、それを機に共産主義者が台頭してくるのを防ぐ狙いもあったと考えられます。この特徴の一つは30年代の適用拡大を既成事実化したことでした。宗教団体の摘発も強化することとなり、非戦・反戦を説く宗教団体の多くが取り締まられることとなります。(ここにおいて「国体変革」はついに反戦や非戦の思想までをも含むこととなったのでした。)創価学会の前身である「創価教育学会」のその一つであり、創始者の牧口常三郎は転向(思想の放棄)を拒否し44年の11月に老衰と栄養失調でこの世を去りました。(この頃はまだ創価もまともだったんですよ。)

ー参考書籍ー
2012年・中公新書:「治安維持法」(著者:中澤俊輔)
2005年・山川出版:「評説・日本史B」
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このように治安維持法は25年の制定後、ソ連との関係や軍部の台頭などの影響を受けて無制限に拡大していったのですが、政党政治は本来何をすべきだったのでしょう。まず第一に言論の自由を保証すべきではなかったのでしょうか?共産主義運動よりもむしろ不法な暴力を排除すべきではなかったのでしょうか...。そうすればあの無益な戦争すら回避できた筈なのです。戦争責任を一手に軍部に押し付けることはどうやら出来なさそうです。かくの如き悪法を内包し育んだ政党政治にも大きな責任があるでしょう。マスコミだってそうです。もっと反対の声を上げるべきだったのです。やはりそうして意味においても大東亜戦争の敗北は大日本帝国という国家の構造的欠陥に起因するものなのかもしれません。次回は本編に戻り、主に2つの事件と関東軍という最大の戦犯について書いていきたいと思います。本日はこの辺で失礼します,ジベリ!

2012年8月10日金曜日

陶器祭~万灯会

・今年も六道まいりの季節になりました。

            ・五条通に軒を連ねる陶器売のテント(陸橋より撮影)

8月もいつの間にやら中旬を迎え、もうすぐお盆のシーズンということですが、今日は一日オフってことで五条でやってる陶器祭と六波羅界隈の「六道参り」に足を運びました。陶器まつりは去年に引き続き2回目、六道参りは2010年以来3回目ということになるのですが、2つとも隠れた京都の夏の風物詩って感じで僕は結構楽しみにしてるところだったりします。

・陶器市には清水焼のみならず全国の窯元が出店している

京阪の清水五条駅から大谷廟、清水坂へと至る五条通周辺には予てより清水焼を取り扱うお店が密集しているのですが、陶器祭にはそうした店に加えて丹後や果ては能登の窯元もここに出店しており、道を歩けば様々な焼き物に出会うことが出来ます。今年は買いたいものがあったんですが、幸い予想よりも安い値で手に入れることが出来たので今年の収穫は上々といったところです^^

・珍皇寺にはあの世への入口があるという

珍皇寺は臨済宗建仁寺派の歴史ある由緒正しき寺院なのですが、実はここ知る人ぞ知る京都随一のミステリースポットであり、何でも‘あの世’に通じる井戸が境内にあるといういわくつきの場所なのです。冥界の入口を「六道の辻」なんて言ったりしますが、まさにそれがここなのです。小野妹子の子孫で、歌人としても知られる小野篁(たかむら)なる人物が平安時代にいたのですが、何でも彼は昼には朝廷に務め、そして夜はここの井戸から地獄へと赴き、閻魔大王様に仕えていたというのです。(非常に頭の切れるお役人さんだったそうですよ。)

・ところ変わってここは六波羅蜜寺

境内にある迎えの鐘を鳴らし、線香を立てたあとはついにメインイベントです。万灯会なるこの催しは本当に厳粛な宗教行事であり、特に何があるわけでもないのですが、2010年以来僕はこれに毎回参加してるんですよ。最初に住職さんのちょっとユーモア交じりの法話があって、そのあとにお坊さんたちが仏前に迎え火を灯しつつ読経。焼香をしたあとに一同で般若心経を一読する...というのが大まかな流れです。

・迎え火の大文字

開山した空也上人が始めて以来、今年で1049回目という歴史ある行事なんですよ。終了後、住職さんらが今年は来年で1050回目の記念すべき年になるということで‘地獄除け’のまじない的なのをしてくれました。(何でも伝来の朱印のようなものがあったんだそうな...。)

            ・崇徳上皇廟は祇園の建仁寺から程近いところにある

六波羅蜜寺を出たあとは、その辺をぶらぶらしながらちょっと河原町に...。祇園界隈を歩いていると、大河ドラマでもお馴染みの崇徳上皇を祀った廟があるではないですか!(お墓自体は彼が最期を迎えた香川にあるのですが、その後怨霊に脅かされたために鎮魂の意を込めて建てたそうな...。)
             ・サングリア(600円)とプレッツェル(100円)

本当は河原町で晩御飯でも食べて帰ろうかと思ったのですが、昼が遅かったこともありそこまでお腹も減っていなかったのでONZEというバル的な場所でサングリアとプレッツェルで一杯やってから退散しました。(ここのサングリアは美味しいんですよね。それでなんか定期的に飲みたくなるんですよw)

・蚊取り線香の豚のやつ

因みに買ってきたものというのはこれです。そうです、蚊取り線香の豚のやつです。正式名称がよくわからないのですが、調べた限りでは単に「蚊取り線香入れ」ってだけで別段特別な呼称があるでもない模様...。なんかこれで蚊取り線香を立てながら夕涼みしたいなってずっと思ってたんですけど毎年買いそびれてて...。早速これから使ってみようと思いますが今日はこの辺で失礼します。次回はまた連載に戻りますので乞うご期待、ジベリってことで。

2012年8月9日木曜日

マウスパッドは基本、無くても困らない

・本日の日替わりはオリンピックに併せてイギリス風とのこと

今日はまた午後から研究室で記事を書いたり論文の準備をしていたりしたワケですが、お昼は久々にエッフェルに行ってました。少し時間が遅れてしまい、もう日替わりは全部出てしまっていたそうなのですが、常連客ということで特別に用意してくれたのでした。実は2ヶ月くらい前から密かにランチの値段が50円値上がっていたりするのですが、それでも変わらずここに来たくなるのは一重にこういう気遣いがあるところだったりします。

・研究室PC(マウスパッドを持っては来たものの...)

その後は研究室へと移動して自習開始!今日は連載の執筆にほとんどの時間を割きましたが、その合間に修士論文の準備や新聞のスプラップの整理なども...。(相変わらず僕のデスクはテンヤワンヤしてますw)そうそう、写真にあるマウスパッド、僕が最近買ったものなんですよ。本当は自宅用に買ってたのですが、考えてみればうちのPCにはマウスというものがなかったので、それでは研究室に...と思ったのですが仮にもYUIさんの上にマウスを置くというのが忍び無く、結局裏返して使うことに・・・。しかも最終的に「誰かに盗られたら困る」(※作者は世界中の人が自分と同じくらいYUIさんが好きなのだと思っている)との懸念から自宅へ持ち帰ってしまう始末ですから、もう何がしたいのやら皆目見当も付きません。(←うん、お前がバカということだけは分かったw)

・研究室からの眺望

研究室はいよいよ今年の9月にオープンする新校舎(22号館)に移ることになったので、ここで勉強できるのもあと僅かということになるのですが、ここから見える景色は意外にいいものなのです。警察学校が目の前にあるだけで別段何が見えるワケでもないのですが、南インターへと続く高速道路の高架線の向こうに見える夕暮れ時の空の色は本当に綺麗で、一日の疲れを緩和してくれます。

・志士会のPRも大事な仕事である

それから研究室のホワイトボード、志士会のPRコーナーが何者かによって消されていたので、めげることなく書き直しておきました。次は丸々一面使っての大作です!!憂国志士会は随時会員募集中ですのでぜひ皆さんも気軽にお入り下さい。一緒にこの国の未来のために戦いましょう...とまた性懲りもなく宣伝をしたところで今日はお開きにしたいと思います。皆さん夢の国で逢いましょう、ジベリ!

新連載・大東亜戦争の真の戦争責任を問う

連載の告知をしたのが6月の末だったと思うのですが、皆さん覚えているでしょうか。そのときはたしか「なぜ日本は大東亜戦争という勝てる見込みのない戦争をするに至ったか?」という名前で登場していたと思うのですが、とかくあの戦争に至った経緯を考察し、なぜ日本があのような戦争をしなければいけなかったのか?ということを考えていくのが今回の連載の主旨であります。

・はじめに
言わずもがな1945年の今日8月9日は長崎に原爆(ファットマン)が投下された日であり、日本人のみならず世界中の人が忘れてはならない日なのですが、そんな日にこの連載をスタートさせるのは半ば意図的で半ば偶然といったところであります。というのも本来は8月6日、つまり広島に原爆が投下されたその日に連載をスタートさせたかったのです。原爆投下の意味についても今一度この連載の中で述べたいと思うのですが、それに先んじてこの場で鎮魂の意を込めて広島及び長崎で犠牲になった方々に黙祷を捧げたいと思います。そしてこの連載をあの戦争で犠牲になった我が国の先人たちに捧げます。あなたたちの犠牲の上にこの国があるということを僕は決して忘れません。そして二度と同じ道は歩ませないことを約束します。(2012年8月9日:Senichi)
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1、普選・治安維持法体制
言わずもがな大東亜戦争は東條英機や昭和天皇が急な思いつきで始めたものではありませんし、そもそも東條英機が首相になった時点では日米開戦は殆ど不可避のものとなっていました。当時のシンクタンクがどんなに計算しても勝算はゼロだったあの戦争ですが、一体どこで日本は出口の見えない連鎖する戦争の袋小路に自らを追い込んでしまったのでしょうか?これ理解するとき、そうした経緯の一つとして「治安維持法」を欠かすことはできません。日本史上最悪の悪法の一つに数えられる悪名高いこの法律は、なぜ定められたのでしょうか?制定に向けた議論は1920年ころよりはじまっていたようですが、制定されたのは1925年。当時の首相は憲政会の加藤高明、大正デモクラシーの真っ只中,「憲政の常道」による政党政治の確立期のことでした。

因みに法整備にあたって積極的に動いた省庁は司法省(現・法務省)と内務省という省庁でした。(今はない省庁なのでピンと来ない方も多いと思うのですが、戦前の日本政治史を語る上で欠かすことのできない省庁というのがこの内務省なのです。今で言えば公安調査庁と総務省と国土交通省などを合わせたくらいの省庁であると思って貰えればいいでしょうか?とにかくそのくらい広範な権限を持ったところであり、「省庁の中の省庁」と揶揄されることも少なくはありませんでした。)とはいえ両省の思惑が完全に同じ方向をむいていたかといえば、そうでもありません。簡潔に言うとすれば司法省は国内の国体改革思想を憂慮していたのに対し、内務省の第一の懸念はコミンテルンの影響にあったのです。ただ何れにせよ第一の念頭に置いていたのは結社の取締でした。その後の改正で適用範囲となる「宣伝罪」についても両省ともに草案に置いていましたが、あくまで言論の自由を重んじる憲政会の意向もあって同要項は削除、ここにおいて治安維持法はまず「結社」取締法として成立するに至ります。(余談ですが、では治安維持法が定められるまでは日本に結社の自由があったのかというとそうではありません。たとえば日本共産党は存在自体が非合法とされて弾圧を受けていました。因みに同法制定時、共産党は再建の途についたばかりで、実質1925年当時、日本に国体変革を目的とする結社は無かったのです。)

これと同じくして普通選挙制(衆議院議員選挙法改訂。25歳以上のすべての男性の選挙権を認めた)が制定されたため、両者を飴と鞭の関係で捉え、25年以降の国家体制を「普選・治安維持法体制」と揶揄することもあります。加えて実はこの年に「日ソ国交樹立」も実現されているため、コミンテルンを介しての宣伝行為・内政干渉を防止するための一種の防衛策であったという側面も少なからずあったと考えられます。(度合いの違いがあるものの、欧米諸国でもそうした狙いの法律が同時期に定められているのは事実です。当時最も民主的であると言われていたヴァイマール体制下のドイツでさえも‘共和体制’を否定する反国家的結社に対する取締法を整備していたのですから...。)

その後2度の改正(28年と41年)が加えられて処罰対象が拡大し、また同時期に結成された特別高等警察による拷問行為(「蟹工船」で有名なプロレタリア文学者、小林多喜二などがそれによって虐殺されている。)が激化していく中で同法は稀代の悪法と化していくのですが、少なくとも定められた時点ではとりわけて苛烈なものではなかったと言えます。実際、虐殺された小林多喜二にしても「量刑」自体は重くはないものでした。つまるところ事実としては、「治安維持法制定=言論の自由の死」ではなく、同法の制定に起因してじわじわと自由が失われていった...というのが実情なのです。そして大東亜戦争が始まる頃には言論の自由は殆ど死滅し、「反戦」の声が反映される可能性は消え去っていたのです。では、なぜそうした政府の‘暴挙’が許されたのでしょうか?それを知るために1920年代後半~30年代初頭の社会背景を確認しましょう。

2、昭和の大恐慌
1920年代前半、日本は第一次大戦のダメージを受けなかったことなどから日本経済はアメリカほどではないものの好景気の中にあり大衆文化も大いに発展、大正は比較的華やかな時代になりました。しかし末期の1923年には関東大震災が発生して首都圏は大打撃を受けます。(震災恐慌)更に昭和初年の1927年には金融機関の構造的未成熟などが招いたとされる昭和金融恐慌に見舞われ更に景気は悪化、そこに追い打ちをかけたのがウォール街の株価急落に起因する世界恐慌でした。生糸などの対米輸出に依存していた当時の日本経済は甚大なダメージを被ることになります。生糸の価格崩壊に加米の豊作に伴う米価下落も重なったため特に農村は壊滅的な打撃を受けたのでした。(そのため1929年の日本における大恐慌を昭和農業恐慌と呼ぶこともある。)そうした景気悪化の中で日本は1928年に山東出兵を決行,領土拡大による景気回復を目指すようになります。1931年には柳条湖事件をきっかけとして関東軍が独断で満州を制圧し、翌年には清朝最後の皇帝溥儀を擁立して満州国を建国。満州国の承認に若槻内閣は消極的でしたが一方で国民はこれに歓喜、メディアは軍部礼賛を活発にしてその一方で政府を「腰抜け」、「早く戦争をやれ」と囃し立てるようになります。(今でこそ平和を訴えて日本の戦争責任を執拗に書き立てるあんな新聞やこんな新聞も、当時はそんな風潮だったのです。)軍部や政府内の主戦派を活気づかせたのは一種の閉塞感であったということは紛れもない事実でした。

3、社会主義運動とファシズムの隆起
そうした閉塞的な空気の漂う中、日本においても2つのイデオロギーを異にする運動が芽生えます。一つにはソ連建国に伴う世界的な社会主義運動があり、もう一つにはそれへの反発と帝国主義への回帰,そしてナショナリズムの結び付いたファシズム運動の隆起ということになるのですが、どちらにせよ共通しているのはこう着した現状の打破を志していることとそれを支えている政権への反発がある...というところでしょうか?日本においても社会主義運動は大正~昭和初期にかけて活発化するところとなり、日本共産党をはじめとする社会主義系の政党・政治結社が多くこの時期に結成されますが、先述したような激しい弾圧を受けてこれは頓挫。のちに日本共産党の中心人物となる徳田球一や宮本顕治もそうした中で投獄されてしまいます。代わりに台頭したのが国家主義ないしファシズム勢力ということになるのですが、日本におけるそれは少々複雑な性格を持ち合わせます。つまり天皇の扱いです。彼らが敵視したのはあくまで政党政治であって天皇制自体は‘より強化すべし’と考えたのです。それゆえ彼らの思想を「昭和維新」と呼ぶ言葉あります。薩長政府によって半ば‘政治利用’される形で担ぎ出された天皇でしたが、ここで再びその権威を利用されることとなったのでした。(天皇の威を借りた彼らの革命論を「錦旗革命」と呼ぶこともあります。そうしたこともあって日本にはヒトラーやムッソリーニに該当する人物が出現しなかったんですね。)

何れにせよ、世間にこうした風潮が高まる中で起こったのが五・一五事件であり、そしてその流れを止められぬまま二・二六事件が発生し、そこに政党政治は完全な終わりを迎えることになるのでした。(次回へ続く)

ー参考書籍ー
2012年6月出版(中公新書):中沢俊輔・「治安維持法」

2012年8月8日水曜日

ひとつなぎの悪法

最近、にわかに巷でもようやく秘密保全法制という悪法の危険性について語る人が出てきましたが、まさにそのとおりであってこの法律が出来てしまえば事実上言論の自由が死滅するといっても過言ではないのです。一体どういうことなのか、この法律の制定に向けた過程を振り返りながら解説していきたいと思います。

①秘密保全法制とは?
国の安全、外交、公共の安全と秩序の維持に関する政府や行政機関が「特別秘密」と指定する情報を‘漏えい’すると「10年以下の懲役もしくは罰金」の厳罰で取り締まる法制。また国だけでなく独立行政法人や地方自治体、業務委託を受けた企業や大学が持つ情報も特別秘密の対象とされる。その他、知ろうとする市民も「扇動」や「未遂」などといった名目で取り締まることを可能にしている。(2012年4月8日のしんぶん赤旗より)

ここで言う「秘密」というのは極めて抽象的でぶっちゃけて言えば政府が「特別秘密」だと言えば何でも極秘情報とみなされ、それを流布した者を容赦なく取り締まることが出来るのです。こんなものが施行されればリチャード・コシミズさんなどのウォール街にとって不都合なブロガー(あ、俺もだw)は勿論、ツイッターを利用している有象無象の人々までもがしょっぴかれる可能性があります。反原発関連のツイートをした人、TPPの危険性をブログで指摘した人、消費増税の背景でIMFに多額の資金提供をしているという不都合な事実をリツイートした人...それらが全て取り締まられることになるかもしれないのです。またこの法制をめぐっては今年の4月にちょっとした騒動が起こっていたのです。

②政府、有識者会議の資料を一部改ざん
これまで述べてきたようにこの法律は国民の「知る権利」にかかわる重大なものなのですが、この法律を巡る非公開会議の配布資料が一部改ざんされて首相官邸ホームページに載せられていたのです。これは赤旗及び日本共産党の調べで明らかになったことのようなのですが、説明を求められた藤村官房長官はこの事実を認めたものの「会議の経緯は公開の議事要旨と配布資料で十分把握できる」と反省の色ナシ。(そもそも藤村さんに言いたいのですが、たとえそれが取るに足らない情報だったとしてもそれを判断するのはあなたではありませんし、だいたいそれを認めてしまえば何でもありになってしまいます。やっぱこの人たち国民をバカにしてますよ...。)最も由々しき事態は、ただでさえ危険な内容の法律がかくの如き経緯で定められようとしているということ。一体誰のための法律なのか、何を目的としているのか...限りなく危険な法律であることは間違いありません。

③目的はネット規制
言論の自由を脅かしているのはこの法律だけではありません。違法ダウンロード刑罰化(2012年著作権法改正→10月1日から施行だそうな...)や未だに議論の続いている児童ポルノ法改正案(単純所持の違法化。詳しくはこちらをチェック)なども、実はこの法律と同じ性格を有しているのです。そもそも「所持」しているかどうかが分かりにくく、もし見ていなかったとしてもスパムメールなどでそういった画像や違法ダウンロードした映像や音源を送りつけられていたらそれでも「所持している」とみなされることすら考えられうるのです。(実際アメリカではそういった誤認逮捕の先例があり、またFBIなどがそれを用いた別件逮捕を行っているという話しもあります。因みに日本より児童ポルノに厳罰を科しているアメリカですが、児童虐待や性的暴行事件は圧倒的に日本よりも多く、更に言えば「子どもの権利条約」にも批准していません。

まぁ要するにこれらの法律はすべて言論封殺を目的としたものであり、もっと言えばインターネットを規制するための‘ひとつなぎの悪法’なんです。ネット規制のバリューセットです。だからマスメディアはあまり積極的にこれらの法律の問題点について触れようとしません。ここ10年くらいメディアの不正を暴き続けてきたのはインターネットであり、彼らにとっても邪魔な存在なのでしょうから...。

 ④ACTA条約という恐怖
それから最後に一つ、現在世界で批准へ向けた動きのあるACTA条約について軽く触れたところで今日は終わりにしたいと思います。これは「偽造品の取引の防止に関する協定」という名の国際条約で、著作権を巡る国際的な法的枠組みを定めることを名目にしているのですが、この条約にはいろいろな問題があり、現在世界中でこの条約に対する反対運動が展開されているのです。(そうした中で欧州議会は先月これを否決したのです。EUが承認したものを秘訣するという異例のケースだったそうな。)

この条約の最大の問題点はいわゆる「ポリシーロンダリング」を認めていること。この言葉の説明はものすごくややこしいのですが、とりあえずここでは「実現したい政策があるとき、それを国内の議論に先立って外国と取り決めを結び‘外国との取り決め’であることを理由として国内法を成立させることが出来るとするもの」くらいの感じで解釈しといてください。ぶっちゃけ内政干渉なんですよ。事実としてこれ、誰かさんのやり方にピッタリじゃありません?国内での反対をよそにサミットで勝手に消費増税を公約として掲げてきたり、碌な議論もしていないTPPについてこれまた勝手に海外で参加の意思を表明して帰ってきたりしている誰かさんのやり方に...。

そしてこの条約の内包する重大な問題がネット規制。著作権侵害が疑われるサイトの強制シャットダウン等が明記されているもののその定義は曖昧であり、解釈によっては二次創作的なもの全てを禁止にしているとも捉えられてしまうのです。そうなればyou tube等の動画サイトは勿論、ブログもツイッターも事実上その存在を否定されることになりかねません。プロバイダには監視義務が強制され、ネット社会は自由を失うのです。(またこの条約は、それとは別にジェネリック薬品の取り締まりを明記したところもあり、医師会などからも反発が挙がっている模様。)

一方我が国はというと、この条約に去年ひっそりと署名していたのです!(あまりにひっそり過ぎて身内の民主党政権内からも批判の声が上がっているとか...。)ここ最近になってtwitterでも騒がれるようになり、市民団体は元より議員さんからも次々に懸念の声が上がるようになっているのですが、ホント野田政権は日本を滅ぼすことしか考えていないようですね。

とかく日本の文化と伝統を守るためにも、そして言論の自由と民主主義を守るためにもこれらの法律や条約に反対の声を上げていきましょう。「誰かが言ってくれる」、「こんな馬鹿げた法律が通るワケがない」...そんな甘い考えからはもう卒業して下さい。それがまかり通らないことは歴史を見れば明らかです。そんな意識の低さが独裁を許したのです、その「事勿れ主義」が今日まで原発を存続させてきたのです。いい加減にそこに気付いて下さい。そして声を上げましょう。民主主義は国民一人一人の意識無くしては成り立たないのですから。文章だけの退屈な記事でしたが最後まで読んで頂いてありがとうございました,ジベリ!