先日,「モンスター・ペアレント」なるドラマのクールがスタートしました。そもそもモンスター・ペアレントというのは学校や教育委員会に対しことごとく物言いを付けてくる保護者の呼称なのですが、何よりもまず僕はこの呼称に問題があるのではないかと思っています。そうやってまるで親を仮想敵国のように仕立て上げて教職の関係者と対立させることが何の利益を生むのでしょうか?被教育者である子供たちにとってその対立が果たして何らかの利益を与えるでしょうか?否,むしろ悪影響を与えるだけです。お互いどこか,「そこは私の責任じゃないですよ。」って責任転嫁をし合っているようなところがある訳ですから。なんか当の子供はこう思うわけですよ。「僕のことなんか誰も分かってくれないっ(涙)」とかってww。悲しいですよ。子供は子供ながらに。両者が言ってる「子供(生徒)のため」って結局は「自分のため」なんですから。「僕をカードとして使うな!」と思っている人は少なくないかもしれませんよ。要する「どっちもどっち」なところはあるんですよ。本当に悪いことをしてる先生も現に居ますしねぇ・・・。
ただ,何にせよ親の方にも何か事情があるのかもしれないわけです。神経質になっているのには,ヒステリックになっているのには・・・。本当のところ,「自分を失っている」ようなところがあるわけです。では,教職にある人々はどう対処すべきか。僕は「とことん話す」のが上策だと思います。例えば窓ガラスを割った子供の親を呼ぶと、その親がこう言ったという事件(?)がありました。「そこに石があったから子供は投げたんだ。」とww。なんかもう「エベレストかっ!」って突っ込んでやりたいくらいですが、そのときはこう言ってやるのです。「はいはい。分かりました。では〇〇君の行きそうな場所全てから投げたら危なそうなものを取り除かせます。そうなると私個人では責任を問いかねますので、役所,いや、全世界ということですから国連に掛け合ってみてください。多分,かなり費用の方がかかると思いますが、勿論,そちらからも出していただけますよね?」と。親はそこで気付くはずです。いかに自分の言っていたことが、本来の議論から外れているかに。石ころの存在が本質的な問題ではないと言うことに。そうして本質的な問題(この場合はなぜ,この子供が石を投げるに至ったか。以後,同じことが無いようにするためにはどうすればよいかetc...)を見つめ、その上で以後,どうすればいいかを話し合っていく。それが本当の意味での「こども(生徒)のため」というものです。こどもは親だけが育てるわけでもなければ、学校のみが育てるものでもありません。両者が協力し合って育てるものです。
結局のところ,人を育てるのは環境なのですね。今日,日本では「まち」とか「むら」のコミュニティは元より、「家族」や「友達」すらも崩壊の危機に直面しています。これは危惧すべきことです。「分かってもらえない」って悲しいことですからね。自暴自棄になってしまう人がいるのも、ある意味頷けることです。分断、分断、そして対立・・・。対立は本質的な問題から目を背けることに繋がります。それゆえ世界はますますおかしなことになっていく。この悪循環を断ち切るにはどうすればよいか。答えは「連帯」です。人と人との繋がりを大切にし、崩壊したコミュニティの再構築を図る,そうして「話し合えるフィールド」さえ作れば、多くの場合,平和的に問題は解決するでしょう。
教職員と保護者だけではありません。ある「集団」を悪者と決め付け、闇雲に対立を促すことは何の利益にもなりません。例えば「公務員」と「一般人」,「正規雇用者」と「非正規雇用者」,「政治家」と「官僚」etc...どの世界にも言える事です。その最たる分断が「勝ち組」と「負け組み」ではないでしょうか?勝ち負けなんてどこで決まるかも分からないし、そもそも,その基準って何なんですか?カネですか?そりゃ,お金はあればそれに越したことはありませんよ。でも,それは尺度の一つにしか過ぎないのではないでしょうか?こうした拝金主義が、いかに馬鹿げているか。その背景にある市場原理主義(或いは新自由主義)が、いかに愚かであるか・・・。「刷新!」,それこそが今の日本に求められている選択肢だと僕は思っています。そしてそのためには連帯,或いはそのための「絆」が不可欠でしょう。今日はこんな感じで失礼します。ジベリ!
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