前回も言った通り、例の大東亜戦争に関する連載はゆったりと続いています。これまで2回に渡り日米開戦前夜の動きについて東條英機など首脳部の動きに則して追ってきたのですが、今回は
前線及び軍部の内部事情について書いていきたいと思います。ホントにこの件を読むと、やっぱり日本はただでさえ負ける戦に負けるべくして負けにいったのだな...と痛感させられます。しかしながら実態は実態として把握しなければ物事と向き合うのは困難であり、課題解決には結びつきません。変えられもしない過去のことをグダグダという暇があったら、失敗した過去をしっかりと見つめなおし、変えられる今に生かそうじゃありませんか?
1、隠蔽体質
大東亜戦争で日本が負け始めるきっかけとなった
ミッドウェー海戦ですが、首相である
東條英機がその敗戦を知ったのはなんと巣鴨プリズンだったといいます。つまり東條英機はミッドウェーを制したと思い込んだまま戦争を続けていたのです。貧乏くじを引かされていたとはいえ、トップに立つ人物であるはずの彼にすら正確な情報が届いていなかったというのですから、これは驚くべき真相です。このエピソードが端的に示すように、とかくこの戦時中の日本は陸海両軍に
隠蔽体質が浸透しており、トップにすら正確な情報が入ってこなかったのが実情なのです。
2、意味不明の戦線拡大
さぁてここで問題です。次のうち大東亜戦争中に日本軍が進出していない場所が一箇所だけありますがそれはどこでしょう?
①カリフォルニア沿岸
②ハワイ
③マダガスカル
④ニュージーランド
⑤スリランカ
正解は④、つまりそれ以外の場所には少なくとも一度、攻撃を仕掛けているのです。これは驚くべき事実でしょう。因みに
マダガスカルは何のために行ったのかというと、ヴィシー・フランス政権(パリ陥落後にナチスドイツが擁立した臨時政府)からの要請があったからなんですね(因みにかなり善戦したらしいです...)それにしても凄いメンタリティです。部屋に籠りっぱなしのネットウヨの皆さんも少しは見習ったらどうでしょうかw?
ただ悲しいのはその戦線拡大に何ら脈絡がないということ。風呂敷を広げるだけ広げたはいいけど、それでどうするかは無計画だったんですね。
司馬遼太郎先生と
ドナルド・キーン氏の対談を書籍化した
「日本人と日本文化」において‘日本軍は倭寇のようなものだった’と記している一文があるのですが、この事実はそれを納得させる十分な材料と言えるでしょう。要するに短期戦しか想定していないんです。大局的な見方というものが完全に欠落していたのです。そういうことですから、次に挙げるような問題が起こってしまうワケです。
3、補給という発想が無かった?
タイトルを見て唖然としている方も多いかもしれないのですが、別段これは誇張した発言ではありません。(史上最悪の作戦としてその悪名を歴史に残したインパール作戦を見てもそれは明らかでしょう。)戦争において
「補給」が生命線だということは、
「三国志」を見ても明らかです。
しかし旧日本軍にとって「補給」は二の次でした。特にこれは海軍の方に顕著だったそうです。大抵の場合、補給部隊に回されてくるのは士官学校で成績がビミョーな人たちばかりで、優秀な人材は全部前線に行っちゃってたんです。なんでそんなことになるかというと、これは軍部の評価システムにも関連してくることとなります。補給をどんなに頑張っても、大して昇級の材料にはならなかったのです。また敵の補給艦を撃沈してもあまり評価されなかったため、補給艦を攻撃することに対して消極的だったそうです。敵の補給路を断つ、というのがスマートな戦術だというのは軍事の素人でも分かりそうなものですが、一体どうしてこうなったのかは皆目見当もつきません。
~今日のまとめ~
こうしたことを総合的に考えると、やっぱりあの戦争って負けて当然だったのだな...と改めて思ってしまうところであります。でもよく考えたら、大局的なモノの見方が出来ないのも、隠蔽体質が蔓延っているのも今のこの国と何ら変わりはないような気もします。そしてもう1つ、戦前も戦後も変わらない‘欠陥’というものがこの政府にはあるのです。次回はそこを中心にお話ししたいと思います。(そして恐らく次回が最終回ですw)それでは今日はこの辺で失礼、ジベリ!