2015年7月3日金曜日

加茂の河原に 千鳥が騒ぐ

・壬生寺に行ってきた(写真は千体仏塔)

今日は前々から参加したかったボランティアの説明会のために朝から京都府庁の近くにある京都まなびの街生き方探究館というところへ。その後、午後からは彼女と合流してデートしてきたのでした。壬生寺など新選組にゆかりのあるところを巡ってきたのに加えて、久々にあのお店にも行ってきました^^


あ、タイトルは三橋美智也さんの「あゝ新撰組」という歌の歌詞からの抜粋です。(←なんでお前はそんな歌を知ってるんだw)まぁ実際僕は銀魂に出てくる真選組が好きなワケで、近藤勇じゃなくて近藤勲が理想の上司なワケで、ついでに京都は暑いワケで、新選組には大して思い入れはないんですけどね。

・今年ももうそんな時期か...

あ、京都はもうこの季節ですよ。ピークまではあと2週間ですけど、祇園祭自体は2日前から始まってるんですよ。(そして今月31日まで続くのです^^)ちなみに今年の山鉾巡航のタイムテーブルは昨日のくじ取り式で決まった模様。17日の山一番は孟宗山だそうです。

・「山一番」前祭は孟宗山、後祭は役行者山 祇園祭くじ取り式(京都新聞)

~前祭り(7月17日)~
(1)長刀鉾(2)孟宗山(3)芦刈山(4)伯牙山(5)函谷(かんこ)鉾(6)油天神山(7)四条傘鉾(8)占出(うらで)山(9)月鉾(10)蟷螂(とうろう)山(11)木賊(とくさ)山(12)山伏山(13)菊水鉾(14)郭巨(かっきょ)山(15)綾傘鉾(16)太子山(17)鶏鉾(18)白楽天山(19)保昌(ほうしょう)山(20)霰天神(あられてんじん)山(21)放下鉾(22)岩戸山(23)船鉾

~後祭り(7月24日)~
(1)橋弁慶山(2)北観音山(3)役行者山(4)八幡山(5)鈴鹿山(6)南観音山(7)鯉山(8)黒主山(9)浄妙山(10)大船鉾

・水掛け地蔵

用事が終わったあと、京都駅で待ち合わせて四条大宮まで。目指すは新撰組ゆかりの場所でもある壬生寺。一般的に新撰組の屯所というとここのものが有名ですが、実際にはあと2箇所あるんですよね。そもそも新撰組というのは1863年に4代将軍の徳川家茂が上洛する際、その護衛のために浪人を集めて組織させた警備隊をベースとするもの。近藤勇や土方歳三、沖田総司、そして初代局長の芹沢鴨などはこのときからのメンバーでした。

・新撰組にゆかりのある金戒光明寺(撮影は2013年の3月)

上洛後、幕府はこれを江戸に呼び戻すのですが、このとき東京に戻らず京都に残留した人たちというのが居て、それが先述の4人をはじめとする面々なのですが、それを京都守護職をになっていた松平容保(銀魂の松平片栗虎の元ネタ)が京都の警護・治安維持を目的として雇い入れたのが新選組への第2ステップ。ちなみにこのときの屯所は左京区の岡崎公園付近にある金戒光明寺でした。



それから程なくして彼らはここ壬生に移ります。俗に壬生浪士組なんて呼ばれるようになったのはこの頃からでした。ではいつから新選組という名称が付いたのか?というと、1863年の8月、いわゆる八月十八日の政変に際して薩摩藩士や会津藩士とともに長州藩士並びに公家の倒幕派を追放する任務を果たしたことでその働きを認められて以降なのですね。ちなみに名付け親が誰なのかは諸説あるようです。(松平容保説、武家伝奏説。ちなみに当時の武家伝奏は野宮定功と飛鳥井雅典)それから1ヶ月後、初代の隊長である芹沢鴨を近藤勇らが暗殺。この動機についても諸説あるのですが、1つには芹沢鴨の狼藉に雇い主の松平容保らが困り果てていたこと、2つには芹沢が尊皇攘夷の意志の強い人物だったことがあるようです。

・境内には伊東甲子(かし)太郎と芹沢鴨の墓がある

とはいえ、では近藤勇は尊皇攘夷派ではなかったかといえばそうでもありません。こと尊皇についてのみ言えば、将軍ですら尊皇派でした。だからこそ鳥羽伏見の戦いで突如として朝敵とされてしまった旧幕府軍は戦意を喪失したのです。(まぁ戊辰戦争については色々と陰謀もあったようですが...)世の中、二元的な対立軸でものを見ようとすると真相が見えなくなることが多いのですが、これもその1つのいい例かもしれません。



ちなみに先述の墓の2名をモチーフにしたキャラこそが伊東鴨太郎ということになります。伊東甲子太郎は新選組で参謀を務めたほどのキレ者でしたが、尊皇攘夷の思想の強さからのちに組を離反。御陵衛士(高台寺党)を結成するのですが、のちに伊東と主要メンバー数名(中には近藤や土方らとは試衛館以来の同志である藤堂平助も)が新撰組により殺害された(油小路事件)ことにより御陵衛士は解散。

・壬生寺で買った山崎烝(銀魂の山崎退の元ネタ)のキーホルダー

残されたメンバーは薩摩藩に匿われ、戊辰戦争でも新政府軍の一員として戦っています。これは単に「敵の敵は味方」という原則に基づいたものではなく、伊東甲子太郎が尊王思想の強い人物であったことが影響しているのではないかと思われます。大政奉還後に朝廷に送った書簡からそのビジョンが明らかになっていますが、それは朝廷や公家を中心としながらも旧権力(徳川方)をも政権に参加させるというもので、さしづめ坂本龍馬の考えに近しいものだったようです。(ちなみに伊東甲子太郎は大正時代になってから靖国神社に合祀されている。)

・これが有名な局中法度

何かと血なまぐさい話の多い新撰組ですが、なんと敵との戦闘で死んだ人数よりも法度に基づく処刑や内ゲバで死んだ人数の方が多い奇抜な組織でもあるんですよね。新選組は赤穂浪士を理想形とする組織だったそうですが、日本人ってこういう半端モノが集まって切磋琢磨する絵が好きなんでしょうね。(ほら、AKB48だってそれに近いところあるでしょw?)ちなみに生き残りの隊士たちは明治以降どうしたのかというと、たとえば永倉新八は北海道で悠々と暮らしながら東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)で剣道を教えていたようですし、斎藤一は警察官になったそうです。また御陵衛士の残党である篠原泰之進や加納鷲雄はなんと官僚になったそうな・・・。

・フルーツサンドとミックスジュースのセットは1人前810円也

壬生寺を後にして向かったのは、四条大宮のヤオイソフルーツパーラー。ここのフルーツサンドは全国的に有名なものの1つなのですが、その味はまさに別格であります。前に来たときはロータリーの隅っこにある果物屋の2階にあったのですが、今回行ってみるとパーラーはそこから少し離れた場所にお洒落なカフェのような姿で生まれ変わっていました。

・京都駅はデートにもオススメの場所

それから四条河原町に彼女の浴衣を見に行ったりしてから夕方頃に京都駅まで引き返し、ヨドバシカメラや駅ビルに立ち寄って本日のデートは終了。ちなみに浴衣はまだ買ってません。(僕の方は今年新調するかどうかはまだ保留w)

・駅構内も祇園祭仕様に...

京都駅ビルは夕方くらいの時間帯に来ると夜景も見えますしオススメのスポットだったりします。(特にこの時期は夕涼みにもなっていいこと尽くしなんですよね^^)7月になったということで京都駅もすっかり祇園祭仕様です。改札の上には山鉾の名前が書いた提灯が飾られ、駅構内には祇園囃子が鳴り響きます。丁度山鉾巡行まであと2週間、祭りの準備を始めましょう。そんなところですが、本日はこれにて失礼します。ジベリ!

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