2008年11月4日火曜日

「歴史」を学ぶということ

最近,編入試験の勉強でまた世界史を黙々と勉強しているのですが、やっぱり歴史の教科書って残酷ですね。以前僕は「世界で一番恐ろしいのは人の心だ」的なことを言ってましたが、歴史を勉強する度に僕はそのことを再認識せざるを得なくなります。今のこの時代は本当にたくさんの人の血の上に,あるいはたくさんの過ちの上に築かれてるんですよね。それを思うと「今」という時間の重さを,そして今を生きることの重みを、感じずにはいられないのです。

 歴史上の出来事をどのように捉えるか,これが「歴史学」の極めて難しいところでもあります。戦争なんてのは特にそうです。戦勝国から見たそれと敗戦国から見たそれって、全然,捉え方も違ってきますからね。「勝てば官軍,負ければ賊軍」って言葉がありますが、まさにその通りなんですよ。例えば第二次世界大戦は決して連合国(善)vs枢軸国(悪)の図式で行われたものでは有りません。実態は「植民地の争奪戦」です。東京裁判も、何の意味も成していません。その証拠に原爆の投下を決めたトルーマンも、残虐の限りを尽くしたヨシフ・スターリンや毛沢東も刑罰を受けていないではないですか?南京事件を責めるのならば、なぜアメリカの原爆投下を責めないのか?(日帝を擁護する訳ではないが、南京事件の犠牲者が30万人というのはどう考えても有り得ない。一万歩譲っても、原爆で死んだ罪無き一般市民の数の方が多い。どこぞの名誉会長は「原爆は仏罰だ」などと抜かしていたが、甚だ腹立たしい限りである。久間元防衛相の「しょうがない」発言も問題だが、この発言はその100倍は問題だ。これを批判できないのが日本のマスコミだ。マスコミはすでに創価にヤられてるのか?)重慶への無差別爆撃を言及するならば、なぜ東京大空襲について言及しないのか?日本が帝国主義の侵略国家であったことは明白な事実ですが、同様にイギリスもフランスもオランダも侵略国家でした。アメリカは現在進行形の侵略国家です。独善的で自己中心的で...。いつまでフロンティア気分なんでしょうか?未だに「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」だとか思ってるんでしょうか?日本人の多くがアメリカに抱く感情は複雑です。ある意味では感謝すべき存在であり、同時に物凄く憎たらしい存在でもある訳ですから。

 さっき日中戦争についてちょっと触れたのですが、誤解を招かないために、以下の内容を付加しておきたいと思います。まず南京事件,僕は「無かった」とは思いません。犠牲者数は違えど有ったと思います。100%無かったといえる証拠は無いからです。ただ一人でも犠牲者がいれば,ただの一人でも傷付けたのならば、それは許されざる過ちです。そもそも,日中戦争が侵略戦争であったことは明確です。よく「欧米のやったことの方が残酷だ」,とか「通州事件(中国人によって数多くの日本の居留民が略奪され、惨殺された事件)があるから...」などと言う人が有りますが、それが日本帝国の犯した罪を無にする理由にはなりません。(ただ,何度謝っても,賠償を支払っても、「謝罪せよ」,「金よこせ」の一点張りの中国・韓国の政府もいかがかと思いますけど。国際的なルール無視ですからね。)


 「歴史」というのは殆どのところ、「失敗」と「過ち」の積み重ねです。時代が進んでどれ程科学技術が発達しても、ある意味では全く成長していない「人間」を歴史の中に見ることは、とても容易なことなのです。過去(歴史)とは後悔するためではなく、反省するためにあるもの だと僕は思うんですね。反省して模索して、また反省して...それでいいと思うんです。昨日の失敗を今日に生かせれば、少しでも前進できれば、それでいいと思うんです。歴史を学ぶことは自らを啓発し、進歩することに直結するのだと僕は思うんです。

 日本国際党の最終目的ともいえる「世界政府の樹立」。僕はここに人間の可能性を信じているのです。かつて傷付けあった人々が、仲睦まじく、「未来」を歩む姿,いつかそんな日が来ると夢見て、且つ,どこかでこんな明日が来るを確信しているのです。

‘目が覚めたとき、世界には平和が訪れていた。

非道な独裁者たちは追放されて、人々は解放された。

もう何かに怯える事も無く、彼らは心から崇める神に祈りを捧げている。

かつての支配者たちも平和を謳歌して手を合わせる。

永久にその友情が続くようにと祈りを捧げている,


中東では、イスラエルの子どもとパレスチナの子どもが一緒に遊んでいる、

もう「壁」は無くなって,爆弾の代わりに、空には花火が打ち上げられた。

昨日まで刃を交し合った2人,今は酒場で盃を交わしてる。



アフリカのどこかでは長きに渡った紛争が終わりを告げた。

兵士たちは家族の元へ帰っていき、子どもたちは学校へ。

銃声はもう聞こえない。明るい笑い声が響いているだけ,


労働者たちは「権利」を勝ち取って、

職場から「暗い皮肉」が姿を消した。


教室からは「思想統制」と「冷たさ」が消えた。

「学ぶ楽しさ」だけを残して。


太陽はいつものように輝いてる。 風はいつものように僕らを包む。

月明かりは夜を照らしてる。 恵みの雨は今日も大地を潤して。


随分と遠回りしたけれど、ようやく辿りついた世界。


これで全部,元通り。


これは決してユートピアや夢物語では無いのです。いつか訪れる「未来」なのです。いや,訪れるべき「明日」なのです。そのための革命,そのための闘争。それなら命を懸ける意味がある、僕はそう思っています。長い記事になりましたが、読んで下さってありがとうございました。今日はこの辺で,ジベリ!

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