2012年5月28日月曜日

サイクリング。

・藤森神社は端午の節句の発祥の地

・伏見は水の町である。

月曜は基本何の予定もない僕なのですが、きょうはちょっと午前中からサイクリングに出掛けてました。そもそものきっかけはゴールデンウィークに桃山に出掛けたときに貰った「名水スタンプラリー」でした。そう言えばこれ今月までだったなということで、ホントは前の土日に出掛ける予定だったのですが、なんかタイミングを逸してしまい、ついに今日になってしまったのでした。というコトで、今回紹介する場所の多くには「名水」が湧き出る井戸があり、場所によっては汲んで帰ることもできるようになっています。(是非ぺッドボトルを持っていきましょう!)

・藤森神社の境内はこんな感じ

1か所目は藤森神社。下宿先から比較的近い場所にあるものの徒歩圏内ではなく、そもそもどこにあるか今日の今日まで把握していなかったこともあり、この町に住んで6年目になるにもかかわらず、一度も足を踏み入れたことのない場所だったのです。

・競馬の願掛けをしている絵馬が多数...

ここ藤森神社は端午の節句の発祥の地と言われており、加えて舎人親王とゆかりのある場所で、学問にご利益のある場所としても知られています。また勝負ごと、とりわけ競馬に縁のある場所らしく、絵馬にもそういった旨の願い事を書いている人がたくさんいました。一通り参拝したあと、再び自転車に飛び乗って次の目的地へと向かいます。

・墨染駅近郊の疎水と透き抜けるように晴れた空

疏水沿いの道を抜けて走ること10分程...。その場所というのは全国的に著名な日本酒メーカーの一つであるキンシ正宗の酒蔵。見学ブースなどもあるのですが、有料なのと今回は先を急いでいたこともあって入ってはいません。(試飲とかもできるのかな?)


・大黒寺の説明書き

3か所目は大黒寺という名前すら聞いたこともない場所。スタンプ帳の地図だけを頼りに進んでいくと伏見中学校に近い住宅街の中にその寺院はありました。別段メジャーな場所ではないので境内は閑散としています。ただこのお寺、幕末ファンなら来ておくべき場所でもあるのです。1862年の寺田屋騒動(龍馬に関係ないほうのやつ)で犠牲になった有馬新七ら9名の薩摩藩士(通称:薩摩九烈士)の眠る墓地があるのです。彼らの死を悼んで西郷隆盛が建てたと言われる石碑も境内にあります。(丁度下の写真の左端のものがそれ。今あるのはその後再建されたものですが...。)

・薩摩九烈士の眠る大黒寺境内の墓地

マイナーな事件なのでこの寺田屋騒動について軽く触れておきます。この事件は薩摩藩の志士たちの方向性を巡る対立に起因して突発的に起こった斬り合いだったのです。(今で言うところの内ゲバでしょう。)そもそも薩摩藩には2つの派閥がありました。一つは島津久光を筆頭とする公武合体派、穏健派であり必ずしも討幕を目指さないグループでした。そしてもう一つは尊王攘夷を理念とする急進派。若手の志士が中心であり、有馬新七はその急先鋒でした。幕府への取り込みを図る島津久光にとって彼らは邪魔者以外の何物でもありません。そこで寺田屋に滞在していた有馬新七のもとに交渉人を派遣しますが話しは決裂。激闘の末、島津久光の名のもとに彼らは結果として粛清されるところとなったのでした。

・過激派として知られた薩摩藩の志士、有馬新七(1825~1862)

僕は自らが憂国の志士を語り、当時と形は違えど攘夷を志す身であることも相俟ってか、幕末の志士たちに何か熱いものを感じずにはいられないところがあるんですよね。有馬新七や坂本龍馬先生のように死にたいなんて大それたことは考えませんが、ただあの人たちのように生きてみようと...。彼らにゆかりのある場所を訪れるたびにそんな感傷に浸っている自分が居ます。こんな平和な時代で何をと笑われるかもしれませんが、まぁせいぜいあの世に行ったときに龍馬先生たちに顔向けできる程度には生きてみようと思う今日この頃であります。

・御香宮神社境内に残された伏見城の石垣

おっと!!話しが著しく脱線していた。(←歴史のことを語り出すとこれだから困るわ,我ながらw)4か所目の目的地は桃山の御香宮神社。ここについては知ってはいたものの足を踏み入れたことのない場所でした。若干広めというだけで至って普通の神社なのですが、必見なのは境内に残されている謎の石垣のようなもの。これは伏見城築城の際に運び出されたものの使われなかった石垣で、現在でもこのように無造作に積み上げられています。

・色彩鮮やかな拝殿及び本殿の装飾も必見

それからもうひとつ見ておくべきなのが写真の拝殿とその奥にある本殿。絢爛豪華な装飾が目を引くのですが、これが作られたのは江戸時代初期。実はこういうのってこの頃の特色なんですよ。(日光東照宮がその典型ですねw)戦国時代への追憶とか徳川の織田や織田に対する虚栄みたいなのが見え隠れしているワケなのですが、まぁ趣味がいいか悪いかで言えばまぁ...良くはないですよね。秀吉の絶望的なセンスの無さがないと言うだけであって、東照宮も充分しつこいですから。まぁ何が言いたいかというと侘び寂びこそが日本的美学の真髄であると...。そういうコトです。

・乃木神社の境内(この灯籠、かなり大きいんですよ)

そして次に向かったのは乃木神社、本日最後の目的地です。言うまでもなくここは明治時代に活躍した軍人・乃木希典を祀った神社ということになります。東京の乃木坂や、その分社として北海道にあるもの、更には彼の故郷の下関など、全国津々浦々に乃木神社というものはあるのですが、京都のそれは明治天皇に忠誠を尽し、そして壮絶な殉死を遂げた彼を具象するかのように、明治天皇陵の麓に位置しています。

・再現された乃木希典の生家

境内には乃木希典の生家なるものが復元されています。説明書きも備え付けられており、裕福な家庭の出身ではなかったこと、兄弟想いであったことや親が教育熱心であったこともあり勉強家であったことなどが読み取れます。それにしても軍人として世界に名を馳せる彼が、昔はむしろ気の弱い性格であったというのは驚きました。てっきりガキ大将的なものを想像してましたからw

・乃木将軍の胸像

境内にはその他,資料館や宝物館などもあり、また乃木将軍をあしらったお守りなども販売されています。そして上の写真は乃木将軍の胸像。これは丁度学習院の院長を務めていた晩年の頃(1907~12年)のもののようです。士道や質素謹厳を重んじる彼の教育方針は「乃木式」と呼ばれるものであり、学習院の生徒は勿論,民衆にも大いに支持を集めたと言います。(一方で非文明的との非難もあったようですがw)短い間とはいえ幼少期の昭和天皇も彼の下で学んでいたようで、後の人格形成などに少なからぬ影響を受けたという話もあります。


          ・戦艦吾妻の主錨が安置されているモニュメント

その他で境内にある特筆すべきものといえばこのモニュメントでしょうか。これは日露戦争でも活躍したフランス製の戦艦吾妻の主錨(しゅびょう)を安置した慰霊碑であり、海戦で命を落とした海兵らを祀るものとして作られたようです。きっと何千何万もの名もない人たちの犠牲の上に今、この国はあるんですよね。そう思うと感慨深く、悲壮なものを感じます。

・乃木神社へと続く山道

乃木神社は大手筋商店街からも結構距離があり、しかも森の先にあるので、今回のように自転車にでも乗ってこないなぎりはなかなか訪れることも出来ない場所なのですが、皆さんも機会があれば行ってみてください。その後はというと、とにかくお腹が減っていたので大手筋のマクドで昼食を食べて一息ついてからまた自転車で深草へと引き返しました。新緑の気持ちよい日々がしばらく続くようですが、どうぞ皆さんも休日はどこかに出掛けてみてください。それでは今日はこの辺で失礼します,ジベリ!

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