~包摂と排除~
昔、僕の好きな芸人の1人で、R-1チャンピオンになったこともある中山功太さんが「対義語」というネタをやっていた。中山さんのフィルターを通せば落ち武者の対義語はアゲアゲ農民になり、淋しい熱帯魚の対義語はどんと来い錦鯉となる。
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しかしながら世に溢れる対義語というものの中には、実際には必ずしも対局とは言えないようなものがあるのが面白い。たとえば模倣と創造だ。この両者は対義語とされているが、実際には模倣の延長上に創造はある。バンドだって既存バンドのコピーから入るのが常であるし、自分ではオリジナルと思っていても、それは自分の中にある無数のサンプルから無意識に‘模倣’しているものであることも珍しくはないだろう。とどのつまり、模倣なくして創造はありえないとも言えるのである。
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そこでタイトルだ。包摂と排除、これはしばしば対義語の関係にあるとされるが果たしてどうだろうか。包摂というのは、たとえばAまでの人は仲間と考える,ということである。しかしそれは逆説的に言えばBを見捨てるということであり、実際には排除と捉えることもできる。有り体に言えば誰かを救うことは誰かを見捨てることにもなりうるのである。だから、どこまでを助けるか?(或いは誰から優先的に助けていくのか?)それを考えることが福祉国家の根本でもあると僕は解釈している。
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ドナルド・トランプは排外主義者だとかレイシストだとか言われている。そもそもこのイメージが正しいとは一概には言えないのだが、そもそもアメリカでそうしたスタンスの人が台頭することの意味を一体どれほどの人が正しく理解しているのだろうか。というのもアメリカは建国以来、フロンティアという名の侵略行為を以てエクスパンドを繰り返してきた国だ。言うなれば世界中を‘包摂’しようと試みていたのである。だからこそ仰々しく「世界の警察」だとまで宣っていたのだろう。だがアメリカは確実にその力を弱めている。だからこそここに来て、その方針を転換しようとしているのだ。世界帝国ではなく、身の丈に合った、しかし古き良き国に帰ろうとしている。実際にトランプの演説を聞いていると、そういうことをひしひしと感じる。
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繰り返すようだが、現在世界で起きているのは排外主義や極右の台頭などではない。グローバル化(という名のアメリカ化、世界の単一化)の終焉なのである。それに伴い、小さなコミュニテイとしての国家や地域が再び注目されるようになったまでなのだ。そういえば著書「グローバル恐慌の真相」の中で中野剛志さんが面白い事を言っていた。曰く「ヨーロッパの左翼は国家を重視する」のだと。それは左翼がグローバル企業への対抗軸として国家を見ているからなのだと言う。丁度その分かりやすいのがTPPだろう。国単位ではアメリカをも含めたどの国も大凡得をしないようなこの協定で一人笑うのがそのグローバル企業だ。それに対抗するためには国家という機関に頼るほかはない,ということだろう。もしかするとグローバル企業というのは右翼・左翼の共通の敵なのかもしれない。かつて犬猿の仲だった薩長や英仏の如く、右翼と左翼が同盟を組む日が来てもおかしくはないだろう。そういう視点を持って今の国際社会を見ると新しい発見があるのではないだろうか?今漠然と考えているのはそういうことである。
ーおわりにー
今回は「包摂と排除」という難しい言葉を1つの取っ掛りとして書いてみました。意外と書き出すと止まらない性格なので文量てきに想定を大きく上回ることがしばしばありますw で、ふと時間を見ると「もうこんな時間か...」となっていたり...。ということで僕は美容院に行かなくてはならないので今日はここいらで失礼して休日を満喫してくるのです。それでは皆さんよい一日を、ジベリ!
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