なんかもうすっかり忘れられてるんじゃないか?との懸念が払拭できないのですが、一応連載は続いていたのです。前の記事で言っていたように一応本編はこれで終わりで、あとは余談としていわゆる陰謀論についての考察をしていきたいと思ってます。最終章のタイトルは「大東亜戦争の‘構造的敗北’」とのことなのですが、まぁ要するにこれまでの内容を総括するようなものであると考えておいて下さい。
1、意思決定プロセスの欠如
この連載の6番目の記事で、陸海軍の対立関係について書きましたが、そこでも言った通り、こうした不和は何も日本に限ったものではないのです。たとえばアメリカだって海軍と陸軍は半ば対立関係にあったのです。だからこそ大統領に権限を一本化させるために国防総省が作られたのです。しかし日本はどうかというと、憲法上の建前としてはこそ天皇が軍事のトップだったものの実際は天皇が各機関を調停したり、鶴の一声で大きな決定を下したり...ということはほぼありませんでした。明治政府発足当初はその責務を元老が担っていましたが、最後の元老である西園寺公望も1940年に他界しており、ここに於いて事実上元老はその歴史に幕を閉じたのでした。それに近い権限を有したのは内大臣である木戸幸一ですが、正直なところそれ程有能な人物ではありませんでしたし、そもそも彼一人に元老の意思決定プロセスと同等のものを求めること自体、無理しかない話しだったのです。
実際のところ昭和天皇はそうした中でかなり葛藤した人物だったんじゃないかな?と思います。明治天皇は「親政」(君主自らが政治を行うこと)だという人もたまにいますが、実際主導となったのは先述した元老やその他薩長の面々だったのであり、天皇が直々に...というには少し無理があるのが実情でした。ゆえに明治天皇はそれほど大きな責務や重圧を担うことはなかったのでしょうが、昭和天皇は違いました。海軍と陸軍,或いは政治家同士の衝突、そういったものを調停する必要が生じたのです。しかも元老のような有能なアドバイザーも居ない...。しかも自分の望まない方ばかりに事態は進行していくのですからその心中はきっと穏やかではなかったでしょう。余談ですが日本が核兵器を「実用化」しなかったのはその昭和天皇の意向によるところが大きかったようです。実際東條内閣の頃より核兵器の開発は水面下で進められていたのですが、それを聞いた天皇は強い反対の意を示します。(以下「」内はその論拠。ネット上に多く出回っているのですが、書籍では五島勉という人の「日本・原爆開発の真実」という本に記載があるようです。)
「数カ国がその新兵器開発を競っているとの事だが、日本が最初に開発し使用すれば、他国も全力を傾斜して完成させ使ってくるようになるであろうから、全人類を滅亡させる事になる。それでは、人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。またハワイに投下する計画との事だが、ハワイには、日本の同朋が多数移住し、現地民とともに苦労し今日を築きあげたところである。そのような場所に新兵器を使用することには賛成しかねる」
これは初めて読んだときホントに涙が流れました。我が国の天皇陛下はそこまで考えていたのです。それ程までに高尚だったのです。その後の状況を考えれば、昭和天皇の認識が正しいことは明白でしょう。今声高に核武装を提言している人たちに言いたいものです。お前らは昭和天皇の御言葉を無駄にするのか?と。それでも保守なのか...と。
2、日米開戦は官僚主導?
これまで言ってきたように、大東亜戦争は少なくとも東条英機や昭和天皇が独断で始めたものではありません。では一体誰(どこ)が「主導」となったのでしょう?実は官僚(特に軍務官僚)だったのです。日米開戦の決定打とされる「ハル・ノート」にしてみても、実はその解釈は様々であり、実のところ解釈がバラバラなまま交渉打ち切りに至ったところが大きいのです。この連載の6番目の記事(上述)で「東條英機はミッドウェー敗北を戦後まで知らなかった」と言いましたが、このようなことは他の場所でも起こっており、例えば開戦時の話にしても、外務大臣の東郷重徳はハワイ空爆のことは元より、アメリカとの交渉打ち切り(事実上の宣戦布告)とその空爆の開始との間に時間が30分しかないということも知らされていなかったといいます。つまるところ各セクションがてんでばらばらの方向を向いたまま戦争は始まったのでした。
因みに軍部が開戦を急いだ理由は幾つかあります。一つは資源のストックです。これは勿論日に日に減っていく一方です。そして2つ目はアメリカの動向です。このとき日本は太平洋に向けた海軍戦力で少しばかりアメリカを上回っていたのですが、日本との関係悪化を受けてアメリカは増強を進めていました。追い越されるのは時間の問題です。そして3つ目は潮の流れです。これは世の中の...とかそう言う意味ではありません。南方洋上での作戦上、潮の流れが日本にとって不利になる...というそのまんまの意味です。
因みにですが日米開戦に少しでも有利な影響を与えるはずだったドイツの躍進が途切れた(独ソ戦におけるドイツの劣勢化)のは開戦とほぼ同時期の1941年12月上旬でした。もし何らかの関係で戦争開始が遅れ、ドイツの劣勢がより明白なものとなっていれば、開戦に踏み切ることはなかったかもしれません。(まぁ要するに半ばご都合主義ということです。)
つまるところ今も昔も、この国は官僚主導なんです。要するに「構造的な欠陥」というのを是正することなく今日に至っているのですから、これは由々しき事態と言えるでしょう。
3、意思決定に優先する感情論と精神論
国力・経済力が圧倒的に不利な中、無限の拡大が出来るのは「精神論」のみでした。しかしそんなことが上手くいくはずもなく、実際結果として「敗戦」という帰結に至ったのですが、そもそもこの戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃はどのようなプロセスで実行されたのでしょう?実は決定打となったのは海軍大将である山本五十六のゴリ押しだったのです。彼は「この作戦が許可されないのなら大将を辞める」と言い、結局その意思に押される形でゴーサインが出たのだそうです。一国の命運に関わる決断をそんなことで決めていいのか?と言いたくなるところなのですが、とかく日本人というのはこういうのに弱いところがあるんでしょう...。(そういえば最近も「政治生命を賭ける」とか言っていた首相が居ましたねw)とかくそうした一種の国民性というものも、あの戦争の敗因(そもそも勝てる見込みはなかったが)の一つに数えられるのではないか?と思います。
~おわりに~
昨年夏より(9月以降極めて遅い速度で)続いた連載も今回で終わりになりますが、読んで頂いてありがとうございした。恐ろしく長く、そして暗い話になってしまったと思います。しかし繰り返すようですが事実の把握なしでは前進できないものなので、その辺を理解した上で読んで貰えれば嬉しいなと思う次第です。そもそもこの連載をやろうと思ったのは、今まさに日本が再びこのいつかきた道を再び歩もうとしているのではないか?という漠然とした危機感が自分の中にあったからです。そしてそれは昨年12月の政権交代によって一層現実味を帯びつつあります。しかし、戦争なんてやったところで喜ぶのはアメリカぐらいのもので、我々にとっては何もいいことなんてないのです。その点をもう一度皆さんに考えて貰いたいのです。
政治の第一の目的は戦争をしないことだと亀井(静香)先生はかつて言っていました。本来政治家とはそうあるべきなのです。国家が何か大きな問題に直面したとき、戦争に訴えるのは稚拙な政治家です。本当に有能な政治家はそんなことはしません。国家がどうあるべきかを考え、また国民の生活を改善すべく福祉や教育に力を入れるものです。
ー参考文献ー
安井淳「対米戦争開戦と官僚 ~意思決定システムの欠陥~」(芙蓉書房出版)
野口和彦「パワー・シフト理論と日米開戦」(こちら)
今月11日には我が憂国志士会も2周年を迎えるワケでありますが、それに併せて...ということでもないのですが明日からの5日間(8~12日)でこのブログではちょっとした企画をやろうと思っています。名付けて「怒涛のエッセイ10連発!!」。内容はエッセイに限るため、たとえばどこかに行ってきた感想とか、何か料理を作った感想みたいなのはノーカウント。つまり1日に挙げられる記事の数は(平均すれば)少なくとも2つ以上になるのです。何でこんなことをするのかというと、その理由は2つ。一つは書きたいことがとにかく沢山あるということ。そして2つには現在少し時間的な余裕があるということ。まぁそのくらいの理由なのですが、政治から芸能、或いは教育まで様々なトピックを取り上げたいと思っているのでそちらも是非読んで貰えると光栄です。そんなところではありますが、本日はこの辺で失礼したいと思います,ジベリ!
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