たとえば大東亜戦争前夜の日本。比較的最後まで戦争回避派が多数を占めていたことは先の連載で言ってきた通りです。それに対して開戦を主張していたのは軍務官僚を中心とする人々でした。では彼らはそれぞれどのような見解からそれを主張していたのでしょう。(ハル・ノート受諾後である1941年11月27日の会議の重臣会議にて。筆記が禁止されていたため、内容は木戸幸一の回顧録などに依拠)
それを読み解くとあることが分かります。主戦派が「とにかく戦争だ」、「もはや戦争しかない」といった旨のことを行っているのに対し、慎重派は主張します。物資の補給能力の点でアメリカと戦争等やれるものではない(岡田啓介)、戦争をするにはまず資材が必要である。その中でも石油は最も重要であるが、これが足りていない。戦争半ばに石油が不足するようなことがあれば、どうして戦争を遂行することができるか(若槻礼次郎)等々...。
このように慎重派はその論拠が非常に具体的です。また、この重役会議において、戦争に賛成したのは陸軍出身の2名(林銑十郎・阿部信行)のみで、あとは積極的か消極的かの違いはあれど、日米開戦に否定的な構えを見せたといいます。それにもかかわらず「開戦」の決断は下されたのでした。またこの会議においてハル・ノートの内容についての検討精査がなく、最初から「開戦ありきで話しが進んでいた」(若槻の回想)という点も見逃せないところであります。
因みに首相の東條英機は当初こそ戦争回避に向けて動いていた(それが昭和天皇から付与された使命でしたから...。)のですが、ここにおいては開戦論者に転じており、「物資は足りると陸軍が調査した」と若槻の意見を一蹴しています。恐らくこの辺が重光葵に「広量と世界知識が欠如していた」と評される一因かもしれません。自分自身にそういう傾向が全く無いとは言えないのであまり人のことは言いたくないのですが、要するに融通の利かない人だったのでしょう...。
因みに首相の東條英機は当初こそ戦争回避に向けて動いていた(それが昭和天皇から付与された使命でしたから...。)のですが、ここにおいては開戦論者に転じており、「物資は足りると陸軍が調査した」と若槻の意見を一蹴しています。恐らくこの辺が重光葵に「広量と世界知識が欠如していた」と評される一因かもしれません。自分自身にそういう傾向が全く無いとは言えないのであまり人のことは言いたくないのですが、要するに融通の利かない人だったのでしょう...。
今日の問題に当てはめるとたとえばTPPがその顕著な例かもしれません。反対派の主張にはちゃんとした根拠(広範な自由化を前提としており、セーフティーネットが用意されていないこと・この協定の背景にある国際的なパワーバランスから見るに、日本にとって不利なものにしかなりえないこと・参加したところで経済成長の足しには殆どなりえないこと...など)があり、それを論拠として一貫して「反対」の意を唱えています。よく「代案を出せ」という人もいますが、それについてもインドや中国などアジアでの経済的パートナーシップを強化するという具体的にしてより効果的な施策が持ち出されているのが現状です。
一方推進派はというと、経済成長のために必要であるとか、交渉に参加する時点では国益に反しない...といった具合に、概して抽象的な意見しか見受けることが出来ません。(しかも最終的には「競争に勝てないから参加しないというのはおかしい」とかほざき出すテイタラク...)であるにもかかわらず、多くのマスコミはTPPを推進しているのですから、これは異常であると言わざるを得ないでしょう。(尤もこの問題に関しては国民の意識の問題というよりもむしろ、マスコミの性格を問うべきなのかもしれませんがw)
一方推進派はというと、経済成長のために必要であるとか、交渉に参加する時点では国益に反しない...といった具合に、概して抽象的な意見しか見受けることが出来ません。(しかも最終的には「競争に勝てないから参加しないというのはおかしい」とかほざき出すテイタラク...)であるにもかかわらず、多くのマスコミはTPPを推進しているのですから、これは異常であると言わざるを得ないでしょう。(尤もこの問題に関しては国民の意識の問題というよりもむしろ、マスコミの性格を問うべきなのかもしれませんがw)
日本人は奥ゆかしさを大切にします。だから例えば京都ではお客にそろそろ帰ってほしいときにも「そろそろ時間が...」とか「明日早いので...」みたいな言い方はしません。「ぶぶ漬けでもいかがどす?」とかなり婉曲した言い方をするのです。それ自体は一概に悪いこととは言いません。その「奥ゆかしさ」の中から繊細な知性や芸術が育まれているのでしょうから別段それを非難するつもりもありませんし、これからも大切にしていくべき「心」であるとは思います。
しかし、合理的ないし論理的な視点を見失いがちなのは、あまり褒められるところではありません。しかもその結果として「悲劇」というべき事態を招いているのですから殊更です。いいところを守りつつ、変えるべきところは変えていく...というのが保守のあるべき姿だと僕は思っているのですが、日本人の‘良さ’をより生かすためにも、そういう「反省」はきちんとしていくべきであると考えています。
しかし、合理的ないし論理的な視点を見失いがちなのは、あまり褒められるところではありません。しかもその結果として「悲劇」というべき事態を招いているのですから殊更です。いいところを守りつつ、変えるべきところは変えていく...というのが保守のあるべき姿だと僕は思っているのですが、日本人の‘良さ’をより生かすためにも、そういう「反省」はきちんとしていくべきであると考えています。
「1日に2つのエッセイ」とか言っておきながら今日はこれを書くだけで精一杯になってしまったのですが、どこかで帳尻を合わせたいと思いますw (エッセイとは別に今日はもう一つ書きたいことがあるので、少々お待ちください^^)
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