先ほどの記事で「ならぬことはならぬものです」という一文を書いたのですが、これは会津若松に伝わる「什の掟」というものの中に記された最後の一節です。因みに「什」とは藩士の子どもたちを教育するための一種の町内グループ(自治組織とも言える)のようなものであり、什の掟はそこのルールということになります。(下記参照)
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめては(原文)なりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
そしてこれの最後に先述の「ならぬことはならぬものです」という一文が加えられるのです。『国家の品格』で藤原正彦さんが取り上げたことなどから全国的に有名になったこの「戒めの言葉」ですが、成程これらは現在でもそれなりに説得力のあるものと言えるでしょう。(1と6と7を除けばw)何より最後の文言である「ならぬことはならぬもの」(要するに「ダメなものはダメ」)というのは物の真理を現していると言えるでしょう。前々回のエッセイの中で、合理的見解が抽象論より重んじられがちである...という我が国の意思決定プロセスの問題点を指摘しましたが、では僕はすべてを合理的にすればいいと思っているかといえば、そうではないんです。よしんばそうするのが一番いいとしても、それでは社会全体がひどく冷たいものになってしまいます。(そして新自由主義というものの本質がその「冷たい社会」を作るためのものであるという点もここで指摘しておきます。)
この世の中には合理的・論理的な見方だけでは判断できない(説明できない)ものが沢山あります。それだけでは説明できない物事がこの世の中にはあるのです。それゆえに神とか悪魔といったものを人は信じるのではないでしょうか?宗教とか道徳というものは、そもそもそういうものだと僕は考えているんです。
1844年にフリードリヒ・ニーチェはその著書である『ツァトラウスはかく語れり』の中で「神は死んだも同然である」と言いました。この解釈を巡っては勿論色々なものがあるのですが、僕は彼の発言こそが現代社会のスタートだったように思うのです。ヨーロッパ的に言えば自然というものは淘汰するものでしかありませんでした。それゆえ利便性の追求により環境破壊をすることも他の動物を絶滅に追い込むことも厭わなかったのでしょう。(ようやく彼らが気付いたのは環境破壊により人間自身が危機に追い込まれることに気付いた後でした。)
しかしアジアでは「自然」とはそのまま神であり、共存するべきものとして捉えられてきたのでした。日本の神道も然り、中国の老荘思想も然り、或いは仏教にもそういった一面があると思います。明治維新以降、ヨーロッパからの思想流入でそれらは衰えてしまいましたが、今こそそれらを取り戻す時が来たのだと僕は考えています。科学技術の発展により地図から空白は消え、宇宙の構造についても少しずつですが分かり始め、かつてに比べればたしかに「分からないもの」は減ったように思います。しかしそれでも分からないものはあります。どうして自分が生きているのか、或いは生まれてきたのか?というものは分かりませんし、美しい絵画に心惹かれる理由も素晴らしい音楽に感動する理由も論理だけでは語り尽くせません。その意味で芸術には「神」が宿っていると言えるでしょう。また人と人が惹かれあう理由、これも論理を越えたものがあります。恋愛が学問化できないのは、そこに神が宿っているからなのでしょう。
だから今主張したいのは、「アジアに帰れ」ということです。それは科学技術を放棄せよという意味ではありません。寧ろそれらをより活性化させるためにこそ、これを主張したいのです。欧米が世界を席巻したのなんてほんの数世紀で、それまではアジアの方が優れていたのですから...。日本が中心となってアジアの叡智を世界に広めていこうではないですか。
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