憂鬱という言葉を知ったのは小学校の高学年だったと記憶している。テレビ番組で「なぜ6月になると憂鬱になるのか」みたいなのをやっていた。6月には祝日がない。やたらと雨が降る。1ヶ月前には大型連休があるし1ヶ月後には夏休みが始まる。谷間のように6月は横たわる。子どもながらに感じていたあの気分を憂鬱と呼ぶと知ったのだ。尤も6月にも楽しいことはあるし雨だからといって悪いことばかりではない。ただあのどんよりとした空の色と祝日がないというそれだけのマイナス要素が何故だが心を曇らせるのだろう。
などと回想しながら僕はこの原稿を4月末に書いている。目の前にはスカイブルーにきらめく世界と須磨の海岸が見える。祝日とあってか店内は子どもたちでいっぱいだ。よしんば自分が親であればあのくらいの子どもがうちにもいたのだろうか。いやはや全く想像がつかない。
物書きとは憂鬱な生き物である。おそらくグルメライターであれ風俗ライターであれそうだろうと思う。(まぁ知ったことではないが...)そもそも我々は実に不安定なのだ。何より言葉と向き合うということ自体が酷な作業なのだ。だがしかし面白くもある。だからこそ僕は結局物書きを続けているに違いない。子どもたちよ、物書きなんざやるもんじゃない。うんと自分をすり減らしたいのであれば話は別だが。
2025.04.29 天王寺センイチ
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物書きなんて辞めてしまいたい気持ちは山々すぎてヒマラヤなのですが、どっこいこんなおもろいことも無いんです。YouTuber(というか配信者なのか?)も勿論ですが僕はやはり物書きもやりたいのです。人生は総合点。これからも多角的に挑みますよ。そんなこんなですが本日はこれにて失敬。ジベリ!
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