2012年10月5日金曜日

東条英機と日米開戦(補足)

また前回の記事から少し時間が経ってしまったのですが、一応連載は続いています。なんかもう修論とか色々他にせねばならぬこともあるので、もしかするとこのままフワフワと年末一歩手前くらいまでやっている可能性も無きにしも非ずですが、その辺ご容赦してもらえればと思う次第であります。今日の記事は読者から届いている幾つかの質問に答えながら前回内容の補足をしていく感じになります。(例によって文字だらけの記事ですが、最後まで読んであげて下さいw)

・質問①:東條英機が‘貧乏くじを引かされた’のはなぜですか?
そう言えばこの辺の説明してませんでしたね。これを理解するにはまず当時の政府ないし軍部の権力構造を把握する必要があります。

当時の政府で華族や皇族以上に大きな力を持っていた勢力は言うまでもなく薩長の出身者であり、特に長州の出身者は明治維新の頃より大きな力を持ち続けていました。(俗に長州閥なんて言い方もしますね。)ご存知の通り坂本龍馬の仲介で同盟を結んだ薩長両藩ですが、もとは犬猿の仲。政権奪取後も決してその仲が良好だったとは言えません。裏では熾烈な権力争いがあったのです。そうした藩閥争いの構造は軍部にも見られ、長州は陸軍に対して、一方の薩摩は海軍に対して一定の力を持っていたと言われます。陸海軍部の主導権争いというのは何も日本のみに見られるものではないのですが、そこにこうした権力争いが絡み、しかもそれを調停する立場が皆無だったのが日本固有の問題であり、それが戦前日本の構造的欠陥であったと言えるでしょう。

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ここで東條英機に話を戻したいと思います。彼は盛岡藩士であり南部氏に仕えた家系に生まれます。つまり戊辰戦争で明治政府と戦った藩の出身ということになるのです。「そのくらいのこと...」と思うかもしれませんが、明治政府においてこの辺は結構重要視される傾向にあったのです。事実、彼の父である東条英教は陸軍大学校の一期生であり同校を首席で卒業した秀才であったにもかかわらず芳しい出世を遂げませんでしたし、東條英機本人も前回書いた通り陸相に就任する1940年まで一度も政治に携わったことのない人物でした。彼自身が政治を「水商売のようなもの」と毛嫌いしていたのもその一因でしょうが、やはり彼も能力の割にあまり厚遇されてはいなかったと考えられます。(余談ですが、父親を尊敬する東條英機の中には「父が思うような出世を遂げられなかったのは藩閥政治の所以だ」という気持ちが少なからずあったようで、とりわけ長州閥への遺恨は彼の根底にあったそうです。)彼の前任である近衛文麿は皇族である東久邇宮成彦(ひがしくにのみやなるひこ)王を後任に推していました。しかし内大臣である木戸幸一(桂小五郎こと木戸孝允の孫)は「もし開戦に至った場合、皇族内閣では天皇に責任が及ぶ可能性がある」として殆ど権力と無関係な東條英機にその職を押し付けたのでした。

・質問②:日本は大東亜戦争に勝つ気はあったのですか?
どこまでで「勝ち」とするかによるのですが、例えば完膚無きまでに英米を打ち負かすことを指すのであれば恐らく無かったと思います。もともと止むなく始めた戦争でしたし、そもそも勝てる見込みも大きな展望もありませんでした。田中上奏文なんてものを未だに持ち出す人もいますが、あれが偽物であることは説明するまでも無いでしょう。(尤もそんな計画めいたものが明確になっていれば、もう少し結果は違ったことでしょう...。)恐らく一定のところまで勝っておいて、その上で停戦協定でも結んで経済封鎖を解いてもらおう...というのが本来の狙いだったのだと思います。

しかしミッドウェーを境に日本は大方負ける一方になり、しかも同盟国であるドイツはソ連から撤退して逆に追い込まれる始末...。あとフィンランドも一応は枢軸国でしたし、軍ヲタの皆さんに知られる通り相当強かったのですが、そもそもあの国は自国の防衛が目的であり、戦局全体をどうにかしようという気持ちはおそらく皆無だったように思います。(イタリアは...まぁパスタを茹でてましたw)当時外務大臣だった松岡洋右は、重光葵ら反対派を押し切って勝ち馬に乗るつもりで嬉々として日独伊三国同盟(当初はソ連を含んだ四国同盟の構想があったがその直後に独ソ戦が始まり計画は頓挫...)に加わったのですが、結局は負ける一方になってしまったのでした。日米開戦当時病床にあった松岡洋右はその時点で既に日独伊三国同盟の失敗を認めています。

・質問③:昭和天皇は軍部にどう関わっていたのですか?
大規模な東征を行ったという神武天皇など古代の天皇を除けば、天皇はその歴史において原則として軍事に関わることは殆どありませんでした。

では明治政府においてはどうだったのかというと、天皇は「大元帥」という立場にありました。つまり軍を総指揮する立場に天皇はあったことになります。しかしこれはあくまで制度上の話です。天皇陛下が軍服を着て戦場に馳せ参じることはありませんでしたし、それどころか天皇の意思があまり反映されていないのが実態です。たとえば中国大陸での政策について昭和天皇は「不拡大」の方針だったにもかかわらず関東軍は独断で戦線を拡大していますし、前回の記事で言ったとおり日米開戦にしても一貫して否定的でした。またあまり知られていませんが2.26事件に際してはクーデターを起こした皇道派に昭和天皇は激怒し、自らが陣頭に出て鎮圧することも辞さない構えを見せたと言います。(昭和天皇と戦争については、それだけで記事が1つ2つ書けそうなくらいの内容になるので詳しくはまたその時にお話します。)

・質問④:東條英機って悪い人じゃなかったんですか?
ええと...何がでしょうか?石原莞爾のような天才型ではないと思いますが勉強家の秀才型であり頭が悪かったとは到底思えません。東条内閣のもとで外相を務めた重光葵は東條英機という人物について「勉強家で頭も鋭く理解力と決断に長けているものの、広量と世界知識が欠如していた」といった具合に評しています。そして「もしも十分な時間があり、それらを身につけていたら日本の破局は避けられた」とも述べています。(尤も自らがその器でないことは東條本人が恐らく一番理解していたのでしょうが...)

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人間性について、或いは彼のやったことについての判断ということであればどうでしょう。少なくとも極悪人ではないと思いますし独裁者では絶対にないのですが、猜疑心の強さや自分に反対するものを許さない狭量な一面があったこともまた否めません。(特に政権末期はその一面が如実になったと言えるでしょう。)また満州国時代には阿片による関東軍の資金作りに関わっていたとされており、その行動に全く問題のない人物であったとは言えないのが実情です。とはいえ天皇陛下からの信頼も篤く、東條本人もそれに応えることを最後まで第一としていました。基本的に無私で清廉潔白な人柄であり、また家族想いな一面もあったそうです。(見た目ですか?ルックス評については個々人にお任せしますよw)

ー参考文献ー
いわゆるA級戦犯(小林よしのり)
あの戦争になぜ負けたのか(半藤一利・保阪正康ほか)
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この連載をするにあたって僕は色々な文献に改めて目を通すことになったのですが、そうしている中でどうしてもやるせない気持ちになってしまいます。もともと負けた戦争の話しをするのだから少なくとも明るい気分になるものでないことは承知していました。では何がやるせないのかというと、この戦争に対する誤解が思想の左右を問わすして著しいことがその一つです。誰が何をやったのか、時代背景がどうだったのか、どうしてそうなったのか...それを多くの人が誤解し続けているのですから呆れてしまいます。(実際教科書にも碌な記載がないのです...。)

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そして更に絶望的なのは戦前日本の抱えていた構造的欠陥が今日も解消されていないということ。既に終わったことの話をダラダラとする意味がわからないと歴史を無碍にする人もありますが、そういう人間に限って進歩も学習も出来ないものです。過去を見つめ直す意味は十二分にあるのです。そして今の世の中に投げかけたい問題提起があるからこそ僕はこの連載をやろうと考えたのです。驚く程の長文になりましたが、今日はこのへんで終わりにしたいと思います。次回がいつになるかは分かりませんが、連載は続いているということだけ覚えておいてください。それでは今日はこの辺で失礼します,ジベリ!

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