2007年12月27日木曜日

「空気を読む」って?

最近、KYって言葉が流行ってるらしいな。「空気が読めないとか何とか。(他にも、小島よしお説や今夜が山説、更には九州ヤバイ説なんかもあるらしいが。)

でもちょっと待った。‘空気’ってなんだ?もし仮に、僕の周りに尭帝や舜帝、老子や墨子、サラディンやガンディー、ゲバラなど、明らかに僕よりも徳の有る人物達がいて、明らかに「正しい」ことをしていたとしよう。ならば僕は彼らと同じことをする。この場合、空気を読むことは正解だ。しかし、もし僕の前にスターリンや毛沢東、ヒトラーなんかが軍を引き連れて現れ、虐殺や略奪を始めたとしよう。周りの俗物たちは、自らが標的になることを恐れ、それに加担する。これは正解か?否。間違いである。

少し話を大きくしすぎているきらいがあるが、概してそういうことではないだろうか?結局大切なのは己の正義なのだ。「正しい目」を持つことなのだ。間違っていることに対しては、「それは違う」と声にすること,これが大切なのだ。少なくとも、僕はそう信じている。だからもし、僕の目の前に軍国主義者や、質の悪い新自由主義者が現れ、僕に「改宗」を迫ったとしよう。彼らが銃口を向けようが、何を向けようが、僕は中指を立てて彼らにこう言ってやる。「失せろ。」と。殉教?名誉なことだ。やるならやれって話だ。無論、できればの話だが。 話はかなり横道にそれたが、概してそういうことだ。何でもかんでも周りに流されるようではいけないワケよ。最後の審判を受けるのは、「個人」なんだから。日本人のダメなところだね。雰囲気を大切にするのはいいけど、それとこれとはスピークがディフェラントだよ。(最後は敢てルー語。まさに藪からスティック!)

じゃあジベリね!

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