2009年6月14日日曜日

人間よ、‘羽’を持て!

前にも言ったように、僕は教職課程を選択している。

別段,教師になるワケではない。そもそも僕は学校が嫌いだ。そりゃそうだ,義務教育の9年間に加えて高校の3年間,僕は碌な境遇に無かったし、増してや教師というものに良い印象などあるはずもないのだから。( 参照)

 強いて言えば、僕が「教育」の勉強をしているのは、消防士が火の勉強をしたり、警官が犯罪心理を勉強しているのと同じ理由なのだ。この下らない社会のシステムを構築している媒体の一つとして「教育」があるのだから、それを勉強せねば崩そうにも崩せないというものだ。歯車が一枚変わったところで社会が変わるだろうか?否,それは無理難題というものだ。ゴミがトップにいる限り、作られていくのは必然的にゴミだ。この‘腐敗’という悪性腫瘍は瞬く間に全身へと広がり、たちまち‘廃人’を構築する。こういう現状がある以上,対処法はただ一つだ。トップのメインサーバーとも言うべきものを打破し、それに取って代わる媒体,すなわち革命政府を構築すること,それに他ならない。勿論,手段は選ばねばならない。「目的のためになら手段は選ばない」などと抜かす者もあるが、以ての他と言わざるを得ないだろう。手段は選ばねばならない。考えて貰いたい,ハエの駆除に大砲がいるだろうか?犬のエサにキャット・フードを買ってくるだろうか?同じことなのだ。状況に応じた的確な手段を用いることこそが、目的達成への最大の近道なのである。


 さて,ここまでを前置きとして本題に入るとしよう。

発端は先週の水曜の「生徒指導論」だ。ここで「いじめ」が構築される体系のようなものを勉強したのだが、ここに僕は社会のあらゆる搾取や抑圧が構築されていく過程の根本を見たのだ。今日はそのことを、順を追って解説していくとしよう。



1.周りの人間

いじめの被害者の割合はその集団全体の12%であり、加害者は19.3%,なのだそうです。(因みにこの加害者の中には、時折,被害者に転ずる者もある)このように、人数だけのことで言えば7%弱ほどの違いです。恐らくこれだけでは’いじめ‘は成立しないでしょう。いじめが成立している大きな要因に、実は被害者でもなければ加害者でもない‘周りの人間’の存在があるというのをご存知でしょうか?割合で言うと、これが実に49.6%,ほぼ半数に値するのです。これは更に分類されます。無関心な傍観者(38.8%),そして煽りを加える観衆(10.8%)の2つです。この観衆の中にはあたかも何かのゲームに参加するかのように加害者に加わってしまう者まで居て、コレが大きな問題の一つでもあります。

2.恐怖政治

 自由の抑圧や迫害が進んでゆく過程もこれに似ています。こんな言葉をご存知でしょうか?

ナチスが共産主義者を弾圧した時、共産主義者でない自分は行動しなかった。ナチスは次に社会主義者を弾圧した。社会主義者でない自分は抗議しなかった。ナチスは、学生やユダヤ人に弾圧の輪を広げ、最後に教会を弾圧した。牧師の自分は立ち上がった。時すでに遅かった。抗議するには誰のためではない、自分のためだ。

これは、ドイツ人の牧師,マルティン・ニーメラーの言葉です。 要するに、自分が被害者になるまで多くの人は事勿れとばかりに、目をつぶっている傾向にあるのです。更に言うと、弱者はより弱者を攻撃する傾向にある,というのも見逃せません。そもそも‘いじめ’のスタートは加害者の「弱さ」にあるのです。自らの劣等感の置き換えである場合が殆どです。そしてターゲットになるのは自分より力の弱い者,或いは何らかの理由から反撃の出来ぬ状態にある者...というワケです。傍観者の中には、虐げられている‘被害者’を見て、そこに‘誰か’を重ねることによって心の充足を得ようとしている者も居るといいますが、これも弱き心の所以というほかは無いでしょう。独裁者が手始めにマイノリティにその矛先を向けるのは、そういった反応を狙っているから...とも云えるのです。悪者退治のように仕立て上げられた「迫害」で、大衆を麻痺させ、求心力を高め、次はその迫害行為に大衆を加担させることで罪の意識を共有させ、最終的には罪への‘恐怖’が最大にして揺るぐことのない支持母体となる...という算段です。

3.あとがき

多くの人は「抗議するには自分のため」なのですが、勿論,それが全てということではありません。恐怖という呪縛から抜け出し、立ち上がる者もいるのです。革命家もその一つと見ていいでしょう。いじめの場合も同様で、その解決のために‘戦おう’とする人も少ないでしょうが居るのです。(先程の割合で言うと、恐らく10%にも満たない程度でしょうけど...)

負のスパイラルがあるように、正しき側にもスパイラルはあります。被害者でも何でもないのに戦おうとする人の姿を見て勇気を貰い、反旗を翻さんとする人間が、’周りの人間‘から出現することもありましょうし、或いはそうした立派な人間の姿を見て、自らの行為を恥じる‘加害者’も出てくることでしょう。決して自分のためではない誰かのため,或いは何かのために戦うことのできる人間,傷つくことのできる人間、僕はそれを‘羽のある者’と呼びたいと思います。日本に限らず、そういう人間が今の世界には少なくなってしまった気がするんですよね。キャピタリズムの精神に基づくなら、それはただのバカに他ならないのでしょうが、そういうバカにこそ世界を変える資質があるのだと僕は信じてます。 

ところで国際党では党員に「仁義・任侠・探究・向上」の4つの精神を守るよう促していきたいと思っています。(勿論,僕自身も大切にします。)前者の2つは、まさに‘無私(unselfishness)’の象徴ではないでしょうか?自分の利益のために動くことが悪いことであるとは言いません。それも必要なことでしょう。しかし,それを忘れてしまうくらいの価値のあるものが、存外,この世にはあるものです。時にはそんなもののために戦ってみてはどうでしょうか?傷付いてみてはどうでしょうか?それも悪くは無いと思いますよ。

では今日はこの辺で失礼します,ジベリ!

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