2014年6月10日火曜日

楠木正成は誤解されている

・神戸は坂道が沢山です

・毎度お馴染みの撮り鉄(阪急神戸三宮駅にて)

今日はちょっと用事があって神戸に来てます。明日も引き続きこっちの方で予定があったりするので今夜は神戸に一人で泊まっているのです。ともあれその「用事」というのは限りなく僅少であり、実質は2日間休みを頂いたに等しい状況で、事実今日はといえば飲み倒している次第ですw

・横尾忠則現代美術館に併設されているぱんだカフェにて(エスプレッソは250円也)

でも今日はその前に色々行ってきたんですよ。このブログにも何度も登場している横尾忠則現代美術館にも行きましたし、もう1つ、どうしても行きたかった場所である湊川神社にも行くことができました。湊川神社というのは意外と歴史は浅い神社なのですが、そもそもここが建てられたのは、かの「太平記」の英雄、楠木正成を祀るためだったのです。僕がFBなんかで好きな言葉としてあげている「七生報国」はそもそもこの楠木正成が残したとされる言葉なんですね。

・湊川神社の境内

今からおよそ700年近く前、彼はここで絶対的な劣勢の下で最後の一戦を迎えます。軍神、或いは日本きっての軍師と畏れられた彼とてその劣勢を覆すには至らず、遂にそこで討ち死にをすることとなるのですが、楠木正成ほどその後の歴史に評価を翻弄された人物はいないのではないかと思える程にある意味では不当な評価を受け続けているのです。どういうことか、それを今日はお話したいと思います。



楠木正成は鎌倉時代の末期から南北朝時代に活躍した武士であり、上述のとおり後に「軍神」と称されるほどの戦上手で知られていた人物です。生まれは大阪の南河内、現在の千早赤阪村(ちなみに大阪府唯一の村)であり、そこの豪族だったと言われてはいるのですが、駿河の生まれであるという説などもあり、実際にはよく分かっていないのだとか。



で、その出自もよく分かっていない楠木正成はいかにして「英雄」となったのか。よく「彗星のごとく現れて」なんて言い方をしますが、彼は正しく彗星のごとく歴史の表舞台に姿を現すこととなります。楠木正成の名前が最初に登場するのは1322年(元亨2年)のこと。出典は高野春秋編年輯録という高野山の学僧が編さんしたとされる歴史書です。当時の得宗(執権である北条氏の家督)、北条高時の命を受けて紀伊国の保田荘司を討ったという記載があり、この恩賞として彼は荘園を得ています。

・湊川神社の本殿

その後、後醍醐天皇と交友を持つようになった彼は倒幕運動にその身を投じることとなります。とはいえ緒戦は敗北続きでした。1331年の笠置山の戦いに敗れ、後醍醐天皇が島流しになっている間にも各地で戦闘行為を繰り返します。彼が得意としたのはいわゆるゲリラ戦。有名な1333年の千早城の戦いでは少なくとも200倍近い兵力を有する幕府軍を奇策を用いて翻弄。この様子を見た周辺の豪族らが楠木側に着いたこともあり、遂には勝利を収めたのでした。千早城での幕府敗北は各地で倒幕への機運を高めることとなり、遂にそれから3ヶ月あまりで鎌倉幕府は滅亡。(ちなみに1331年から始まった後醍醐天皇を中心とする勢力による一連の鎌倉幕府倒幕運動を元弘の乱と呼びます。)

・湊川神社境内の楠本稲荷神社

その後始まった後醍醐天皇による親政(建武の新政という)下において楠木正成は後醍醐天皇から大いに重用されることとなるのですが、この建武の新政というのが問題だらけであり、またしても各地で武士を中心に不満の声が強まります。そしてその中心にいたのが足利尊氏だったのです。後醍醐天皇の力不足、そして武士階級を公家が統制することへの限界を痛感した彼は後醍醐天皇に足利尊氏との和睦を進言しますが却下され、加えて朝廷を京都から一時的に退去し、そこで尊氏を迎え撃つという次善の策をも却下されてしまいます。尊氏との和睦を進言した一件で朝廷の不信を買っていた彼は結局湊川での最後の戦いを新田義貞の指揮下で迎えることとなります。しかし奮闘も虚しく英雄・楠木正成は1336年の7月4日(旧暦では5月25日)、戦場でおよそ40年の短い生涯に幕を閉じることになりました。その後、ご存知のように足利尊氏は1338年に征夷大将軍となり室町幕府を作り、一方で朝廷は2つに分裂する(南北朝)という混迷の時代に突入するのですが、有名な「太平記」はその南朝の視点からつくられたものなんですね。

・湊川神社の最寄駅の1つである神戸駅(ガガガSPの歌でもお馴染みですね^^)

そして南朝を正統とする明治政府の下で太平記は大変に重んじられ、加えて楠木正成は尽忠報国の国士として大いに敬われるところとなり湊川神社が建てられるに至ったのですが、まぁ読んでいるだけでも何ともご都合主義なことかは分かって貰えたんじゃないかと思います。楠木正成はたしかに後醍醐天皇に尽くしてはいましたが、それは天下国家の泰平を望んでいたからこそのこと。上述のとおり後醍醐天皇にその力がないとわかると、敵であり、そしてその種の史観の人たちからは「国賊」とされる足利尊氏と手を結ぶことを進言しているのです。つまるところ楠木正成が言う「国に報いる」というのは天皇ないし朝廷にただ尽くすということではなく、実際にはその国に暮らす人々の泰平のために尽くすということだったというふうに考えられるのです。であるならば、やはり楠木正成は英雄に違いありません。(考えてみたらゲリラ戦が得意ってところもちょっとチェ・ゲバラに似ていていいじゃないですかw?)そのうち、こういう視点から見た楠木正成の大河ドラマとかやってほしいですね。まぁ今のNHKには無理だと思いますが...。とかく今日はこれにて失礼します,ジベリ!

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