2009年2月12日木曜日

学園闘争改革論②

ちょっと日が開きましたが、前回の続きを書きたいと思います。前回 は「システム」についての言及に終始しましたが、今回はどちらかというと「精神論」的な内容です。ゆえに若干,抽象的な点もありますが、その点はご容赦下さい。


3.「対立」から「連帯」,そして「変革」へ

前にも言ったように、「責任」は各々にあるのです。二元論的にものの善悪を決めてしまうことは簡単ではありますが、それは短絡的と言わざるを得ないでしょう。またそうすることで、やみくもに対立を煽ることは、何の利益にもなりません。「教育」は生徒のためにあるものです。イザコザやゴダゴダの間で犠牲になるのは、その‘生徒’だということを忘れないで下さい。大切なことは問題を見極め、その解決の道を模索することです。そうするためには、各々が「連帯」する形を作り、その上で「変革」を目指しましょう。


追記①:「体罰」をいかに扱うべきか?

教師とは生徒を導く存在であり、決して権威を振りかざして生徒を圧迫するものであってはなりません。「先生」という地位にあることを奢り高ぶるなど言語道断であり、むしろ自らが「教育」を実践できる地位になることをただ感謝し、日々精進するもので無ければなりません。これは革命家・政治家の人民への対応のあり方と同じです。しかし圧倒的な悪に直面し、且つ注催促が行き届かず、他者に危害を加え得るような場合は、其の行使もやむを得ずではないかと考えます。ただ繰り返し言うようですが、軽々しく行使して良いものではありません,そこは留意してください。力を持って力を制することは容易ですが、本質的な問題の解決には繋がり難いものであります。心を以って,つまりは「対話」を以って悪を正すことこそが、指導者のあるべき姿であるということを、今一度,心得ねばなりません。


追記②:愛国心と教育

いつかの記事でも言及しましたが、僕は「愛国心教育」というものには反対です。そもそも「愛する」って何でしょうか?僕はそれこそ教えるべきだと思います。「愛」にはさまざまな形があるのは当然のことであり、ましてやそのあり方を強制することなど、あってはならないと思います。「愛」というものは言葉で言い表すことが限りなく不可能に近いものなのですが、僕は何かを「愛する」ということは、それ自体で美しく、素晴らしいものだと思っています。人を強くする起爆剤であり、それを無くしてた如何なる前進も如何なる勝利も、想定できはしません。また「愛する」という行為の根源は「自己愛」です。ゆえに、自らを愛することも出来ぬ人間に、何かを愛することなど出来るはずもありません。だから、「自分を大切にすること」を,「自分を受け入れること」を教えなければ、そもそも「他者への愛」も「愛国心」も、生まれもしないのです。


 そもそも愛国心の対象とは何か?その答えは「人」です。人あっての国であり、間違っても国あっての人ではありません。ゆえに、愛国心の対象は、あくまで「人間」です。勿論,それに介在する形で、国土や風土への「愛」もあるでしょう。また,何かを愛するというのは、その全てを受け入れるということです。過去も未来も、名誉も罪も、その全てを受け入れる,ということです。だから、悪いことは「悪い」と考えることも愛情なのです。どこぞの国や一部の過激派のように捏造と美化に走ってはいけません。今一度,その点については考えねばなりませんね。


<まとめ(第二部及び全体)>

「人を育てる」というのは、本当に難しいことなんですよね。だからこそ、「学ぶ意味」や「学ぶ楽しさ」が失われてはならないのだと僕は考えてます。それを教える場としての「学校」にのみ、意味があるといえるでしょう。ただダラダラと勉強を教えるだけの、試験の機関としてしか機能しないような学校には,そしてそんな教育には意味などありません。また,「教育者のひとり」としての家庭ないし社会のあり方も、今一度の再建が必要でしょうね。正しい‘優しさ’を持ったコミュニティーの構築とでも言いましょうか?そうしたものを築いていくことも、政府の大きな役目なのだと僕は考えます。

長くなりましたが、ご意見・感想等あれば、コメントまたはメールでご自由にお願いします。そんなワケですが、では今日はこの辺で,ジベリ!

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