2013年2月9日土曜日

「やればできる」という妄想

僕の出身高校の校歌に「やればできるは魔法の合言葉」という一節があります。高校野球で一世を風靡したおよそ10年前、この言葉は一時全国区となりました。努力するのはいいことです。サボるのは悪いことです。しかし「(やれば(努力すれば)できる」というのは人間の生み出した最悪の誇大妄想であると僕は思っています。どういうことでしょうか?本日の最後のテーマはこれを取り上げたいと思います。

1、可能性と不可能性
森見登美彦さんの作品である「四畳半神話大系」に出てくる樋口清太郎(通称:樋口師匠)という人物のセリフに「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない」というものがありました。樋口師匠は続けてこう言います。「我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」と。不確定な可能性というものに望みを託すことこそが人間の苦悩の大半の要因であるというのです。至極辛辣ですが、言っていることはよく分かります。

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たとえば僕は力士や野球選手にはなれません。でも幼い頃から力士や野球選手になることを夢見て努力してきた人間に、いきなり学問をやれといってもそれは無理な話であり、よしんば当人がそうなりたいと考えたとしてもそれは困難を極めるでしょう。たしかに、ごく稀に何でもできる人がいます。小学校に一人くらいはいませんでしたか?成績優秀でスポーツもできて芸術にも秀でて、しかもコミュ力もあって...みたいな人。でも彼(ないし彼女)だってどこかで「選択」を迫られます。ずっと万能人間のまま居続けることはないのです。どこかでどの道を行くのかを決めなくてはならないのです。ある部分では‘貴重な’可能性を切り捨てなくてはならないのです。

その点僕は簡単でした。昔から社会科が抜きん出て得意であり、また答えの決まっていない問題についてあれこれと考えるのが好きでしたから。僕は自分の作詞の原点を俳句だと思ってるのですが、それだって昔から比較的得意なことでしたし、僕自身そういった創作活動にのめり込むのが好きな方でしたから...。その道を選んでも大してお金にはならないとしても、その道を進むのが一番自然だったのです。史学科を落ちたことで多少の進路変更はあったかもしれませんが、それは能力云々を越えた‘運命’のようなものだったんじゃないかな?と今は考えています。(もし僕があのまま文学部に行っていたら僕がここまで政治にのめり込むことはなかったかもしれませんし、少なくとも志士会は存在しなかったでしょうw)


2、それでも努力はするべき
タイトルを見てずっこけた人もいるかもしれませんが、何も僕は努力を放棄して怠け倒していればいいと主張しているワケではないのです。それでも努力はするべきなのです。問題は‘何に向かって’それをするのか?ということ。自分は何をしたいのか?そのために自分はどういうことができるのか?それを考えることがそもそもの原点になります。

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そういうことを考える場をつくらずして職業教育とかキャリア教育とか言ってもそれは本末転倒というもの。まず自分と向き合わなければいけませんし、その上で自分を肯定的に捉えなくてはいけないのです。自分を受け入れられないまま「否定」で全てが始まっているからこそ、この社会は「閉塞感」なんぞに包まれているのです。考え方一つでそんなものは壊せます。「何でもできる」じゃなくて、「何か出来ることがある」。そう考えましょうよ。それだけで少しは楽になります。そんなところでありますが、本日はこのへんでお暇します,ジベリ!

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