2013年7月28日日曜日

原発と原爆

広島市長の松井一実さんが華麗なエアろくろを披露しながら「原発と原爆は別」という旨の発言をしていることがネットでちょっとした話題になっています。

・広島平和宣言「原爆と原発は別物」 市長が盛り込み 本紙インタビュー(産経WEST)
http://www.sankei.com/west/news/130726/wst1307260021-n1.html

松井さんは「核兵器反対がなかなかうまくいかないから、(原発の)放射能被害で参りましょうかという、駆け引きには使わないでほしい」として原発の是非と核兵器を切り離す考えを示しているようなのです。言語道断ではあるのですが、この認識は3.11以前、恐らく多くの人が抱いていたものといっていいでしょう。(今はナカッタコトになりつつあるのですが、共産党ですら「核の平和利用」というのを訴えて一定のところで原発を許容していたのですね...。)



一方右翼にとって原発と核兵器は概して定番のセットメニューでした。よしんば彼らが「左翼と同調するのが胸糞悪い」という理由以外で原発を擁護してきたかといえば、それは恐らく原発がある限り日本は「その気になれば核兵器を造れる」という類の希望を持てるからに違いないでしょう。無論これは核に関する知識の無い人たちの馬鹿げた論法であり、もし現時点でこれ以上日本が核燃料を買えないとしても行くアテのない使用済み核燃料を使うという策をとれば核兵器など造れてしまうのです。(余談ですが、核兵器も持っていないのに高速増殖炉があるのは日本くらいのものなのです。)

改めていうのもバカバカしい話ではありますが、原発と原爆は根を同じくする問題です。そもそも「核の平和利用」という喧伝自体がある種の方便なのです。そもそも原子力発電というのは原子力潜水艦の技術をそのまま陸で応用したものであり、出発がそもそも軍事だったことを忘れてはいないでしょうか?我々は「利便性」にかまけて、さも原発の持つ危険性に目をつぶったかのようにその恩恵を受けてきました。3.11という大きな衝撃を受けてもなおそれに目をつぶり続けている人たちが目立つのですが、全く呆れた話です。更に理解不能なのは、自称右翼の愛国者たちが未だに原発を推進する意図です。尖閣諸島の数千倍近い面積の国土を喪失したかもしれないにもかかわらず、彼らは何故それを咎めないのか?言い方は悪いですが、尖閣なんざ国の最果てにある無人島に過ぎません。他方福島はどうですか?どれだけの面積があり、どれだけの人が住んでいるのか?そうしたものが犠牲になっていることに対して心を悼めはしないのでしょうか・・・。だとしたらその愛国心は捨てたほうがいいでしょう。

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志士会にとってそうであるのと同様に右翼の第一の目的は国體(体)を堅持することにあるはずです。「国體」とは広義に渡る概念であり、たとえばそれは神から譲り受けた国土であり、たとえばそれはこの国で暮らす人々の営みであり、たとえばそれは日本語という言語であり、たとえばそれは天皇制という伝統であり、たとえばそれはこの国の風土であるはずです。そうしたものが1つでも欠ければ国體は守れないのです。よしんば尖閣や北方領土を取り戻したとしても、国民の生活がズタズタになり、主権が失われ、国土が穢されたとすれば国體は堅持できないのです。

今するべきなのは核の平和利用という方便を見直し、総体的な意味での核問題を考えることです。安倍政権は見境のない原発セールスに躍起になっていますが、核エネルギーは比較的容易に軍事目的に転換できることを忘れてはいけません。核問題と原発問題は切っても切れない関係にあるのです。

とはいえ先述した記事の最後にある市民団体の行動は頂けませんね。街宣右翼が右翼そのものを貶めているのと同じことがここでも起こっているのでしょうが右翼であれ左翼であれ、節度ある行動を心掛けてもらいたいものです。折角の正しい主張も、訴える方法を間違えれば聞いて貰えないのみならず、その正当性すら喪失しかねませんからね。志士会はそういうことの無いよう心掛けていきたいものです。そんなところですが本日はこれにて失礼します,ジベリ!

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