2008年6月9日月曜日

「命」の重さとは何か

連載に戻ると言っておきながら、今回も号外です。7名の尊い命が失われた、先日の秋葉原での通り魔事件に触発され、何か書かなければと思ったのです。テーマは読んで字の如く「命の重さ」です。

そもそも「命のおもさ」とは一体何なのでしょうか?「命の重さは変わらない」と言いますが、果たしてどうでしょうか?そのいい例が「戦争」です。戦争においてたくさんの敵兵を殺した者は、その国で「英雄」と呼ばれます。日本に2つの原爆を落として戦争に無関係な民間人をを何万と殺したトルーマンは、その後アメリカの大統領になりました。(一方で日本もアジアの各地に侵略し、やはりその過程でたくさんの人命を奪ってしまいましたが。)戦地で出会ってしまったがために人々は殺しあう。もしも旅行先で出会っていたら?もしも同じ学校や職場で出会っていたら?彼らは友達になっていたかもしれません。そして忘れてならないのは「戦争」は決して過去のものではないということです。今も中東のどこかではテロが起こり、たくさんの死者が出ているかもしれないのです。アフリカの,あるいはアジアやラテンアメリカの・・・。世界の何処かには「忘れられた戦場」があり、そこでは銃を持たされた子供が殺し合っている...。ただ祈ることくらいしか出来ないような現実,助け切れないほどの悲劇。それが世界の何処かに今日もあるのです。

もうひとつの悲劇、それは国家によって,あるいはそれに準ずるような絶大な権力によって人々の命が奪われている...と言うことです。その典型とも言えるものが、ナチスの台頭スターリンの「大粛清」です。一つのイデオロギーや価値観を押し付けようとして,異質なものを駆逐したのです。

毛沢東の自らの権力への固執が生み出した、中国史上最大の惨劇,文化大革命も、これに当てはまるでしょう。毛沢東思想を権威として集まった若者たちは紅衛兵として各地で暴れ回り、寺院や文化財を破壊し、あるいは地主などの富裕層を襲撃し、略奪を繰り返す。反革命分子と判断された知識人や政治家は吊し上げられてひどい場合にはそのまま殺されてしまうなどといったこともありました。また,内部の権力闘争に起因する内ゲバで、たくさんの人が犠牲になりました。それまでの政府への鬱憤を晴らさんとする大衆のパワーは、党は元より,毛沢東のコントロールすら利かなくなってしまいます。そして最終的に毛沢東は軍の介入によって収拾をつけることになるのですが、彼は自らが招いた混乱や、それによる犠牲者に対し,謝ることも無く、何の償いをすることも無く、一国の支配者としてその生涯に幕を閉じました。そしてその後も中国政府は民衆を抑圧しながら権力を保持し、現在に至っているのです。

ところで,ある人がこんなことを言ってます。「社会主義(或いは共産主義)は、たくさんの人を殺した。」と。果たしてそうでしょうか?いや,そんなことがある筈はありません。では聞きますが、英のサッチャー政権や韓国の金大中政権等のとった新自由主義(ルール無用の弱者切捨て)政策の下でたくさんの人が失業に追い込まれ、事実上の「死刑台」にかけられた訳ですが、そうした人々は資本主義に殺されたのでしょうか?違うと思います。思想や宗教が人を殺したりはしません。人を死に追いやるのはいつも人間であり、その人間の心に潜む「闇」です。一,中国も旧ソ連もあるいはかつてのカンボジアも、社会主義など看板に過ぎず、その実態は権威主義や全体主義然りとしたものでした。思想としては素晴らしいと思うのですが如何せん,それを扱う人間に落ち度があるように思えて仕方がありません。(これは宗教についても言えることですが...。)

 この世で最も恐ろしいものとは何か?僕はそれは人の心に潜む‘悪魔’ではないかと思います。しかし一方で、最も美しいものもまた、人の心だと思います。一見矛盾して見えるかもしれませんが、得てしてそういうことなのではないでしょうか?人の心が荒んでしまうような世の中ではいけないと思います。自分を嫌いになってしまうような世の中では悲しすぎます。凄惨な事件を無くすには,戦争や紛争を撲滅するには・・・。結局,人が進歩するしかないのではないでしょうか?こんな今だからこそ,人と人との繋がりを大切にしていかなくてはいけないのではないでしょうか?その2つを問題提起する形で、今日は終わりたいと思います。世界平和を祈って,ジベリ!

過去の関連記事(2つ)
http://ten-sen-progress.blogspot.com/2007/11/blog-post_15.html
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