今日は午後の授業をエスケープして、うちの大学で行われていたシンポジウムに出席してきました。これは「21世紀の景観とまちづくり in京都」なるものののですが、まぁ早い話,景観について考えようではないか,といった趣旨のものです。
・学生によるプレゼンテーションの一幕
1、概要
話の中心になったのは国立〔くにたち〕と鞆の浦〔とものうら〕の2か所です。後者の鞆の浦は、宮崎駿監督の映画,「崖の上のポニョ」の舞台として脚光を浴びたこともあり、その後のいわゆる「鞆の浦訴訟」についてもご存知の方が多いかもしれませんが、国立訴訟の方の知名度は低いのではないでしょうか?かく言う僕も、この日まで国立訴訟についての知識は皆無でした。次の項ではひとまずその2つの訴訟について解説させて貰います。
・景観市民運動全国ネット副代表の大西信也さん
2、解説
まず,今回の話の中心となった二つの訴訟について簡単に解説します。
・国立訴訟(2006)
・国立の大学通り
ことの発端は並木の高さを超える20m以上の建物を作らない,というのが不文律となっていた国立(東京都)の大学通りに、40mを超える高さのマンションを建設したことにある。これに対し、住民側が異を唱え、訴訟になった,という、いわゆる「国立マンション訴訟」なるものなのですが、この裁判は結局,市民側が二審で逆転敗訴して終息します。しかし司法がはじめて景観利益を認めた,という意味で、これは非常に重要なターニングポイントとなったのでありました。
・鞆の浦訴訟(2009)
・美しい鞆の浦の風景これは鞆の浦(広島県)の架橋計画に対し、市民側が景観と生活の保護という観点から、計画の指し止めを請求したことに起因するものなのですが、これに対し広島地裁は、先述の国立の判決を引用し、市民側の主張を認めて計画差し止めの判決を下したのでした。行政訴訟上はじめて原告適格が認められたことに加え、司法上はじめて公共事業が差し止められた,という意味でもこれは‘歴史的’なものなのです。
3、総評
日本における‘景観保護’は、まだ模索の段階にあるといえます。 「まち」は、市民の手によって作られるべきものであり、ボトムアップ形式の運動が無ければ成立し得ないものなのですが、どうもその辺の認識が希薄であるように僕は感じます。
日本における‘景観保護’は、まだ模索の段階にあるといえます。 「まち」は、市民の手によって作られるべきものであり、ボトムアップ形式の運動が無ければ成立し得ないものなのですが、どうもその辺の認識が希薄であるように僕は感じます。
ここで忘れてはいけないのは、まず前例ありき,法ありき...で考えてはいけない,ということなのです。大切なのは今,何が求められているか?ということなのですから、国立や鞆の浦がそうしてきたように前例が無いなら作ればいいのです。
また,しばしば景観の保護は都市の利便性と相反するものとして論じられますが、これも大きな誤りであると云えましょう。ヨーロッパ(ドイツなどがその先進例)ではその両立が図られていることからも分かるように、両者の共存は可能なのです。だから「景観保護or都市開発」ではなく、土地の履歴と生活環境を考慮した上での景観保護を考えることが必要なのだというのが結論でしょう。
五本柱の一つとして環境対策を掲げる国際党としては、この景観問題もそれに内包する形で考えているのですが、先述したように如何せん市民側の意識改革なしに景観保護は考えられないんでね...。
4、あとがき(やる気non×3)
相変わらず全くやる気のない僕ですが、このくらいのレポなら難なく書けちゃいますwwその辺はプロなんで大丈夫です。(←何のプロだ!)
相変わらず全くやる気のない僕ですが、このくらいのレポなら難なく書けちゃいますwwその辺はプロなんで大丈夫です。(←何のプロだ!)
まぁ,この他にも今はテスト前というコトもありレポートの山があるので、今日はこの辺で退散します。(というかいい加減立ち直りますww)ジベリというコトで!
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