2012年9月19日水曜日

東条英機と日米開戦

こないだ言ったように先日は山陰の方に出掛けていたのですが、とりあえずその話は置いといて連載を再開したいと思います。後編第一弾は東條英機と日米開戦ということで、まずは日米開戦前夜の日本及びアメリカについて2回くらいに分けて言及していきたいと思います。突然ですが問題です。次の5つのうち、正しいものが一つだけあります。どれでしょうか?

①東京裁判においてA級戦犯とされた人物は全員、当初より日米開戦に肯定的だった。
②東條英機は日米開戦阻止を目的として内閣総理大臣に就任した。
③アメリカはニューディール政策によって恐慌から立ち直った。
④日独伊三国同盟の方針は政府の満場一致で決められた。
⑤F・ローズヴェルトは欧州戦線に参戦することを公約に掲げて大統領選を制した。

正解は...今日の記事の中で発表します。(こらそこ、「えー」とか言わないw)え?本当に正解は一つしかないのかって?ありませんよ、真実は1つのみです。逆に言えば、残りの4つは真っ赤な嘘なのです。「一体どういうことなんだってばよ!?」とお思いの方も居ると思いますが、まぁそう焦らず記事をお読み下さい。
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1、日米開戦前夜
結論から言えばごく一部の閣僚を除けば多くの人が日米開戦阻止のために動いていました。更に言えばその布石となる日独伊三国同盟の締結にも反対している人物は少なくありませんでした。当時外交官であり、その後外相となり敗戦国全権として戦艦ミズーリに赴いた重光葵(まもる)もその一人です。(因みに彼もA級戦犯として巣鴨プリズンに投獄されていました。)政府が同盟締結に向けて動く中、当時イギリスに赴任していた彼はナチスの進行に対して徹底抗戦するイギリスの様子やアメリカの動向などを鑑みてイギリスの勝利を予見。「日本は欧州戦線に介入してはならない」と再三再四打電したと言います。しかし結局聞き入れられることはなく、独ソと連携してアメリカに対抗しようという松岡洋右外相の主導により日独伊三国同盟が結ばれます。

2、恐慌とアメリカ
さて、ではアメリカはどのような状況だったのでしょうか?1929年のいわゆる世界恐慌がアメリカのウォール街での突然の株価暴落に端を発している...というのは有名な話しなのですが、その大不況からどのようにして立ち直ったのか?ということについては正しく理解されていません。恐らく多くの人はいわゆる「ニューディール(新規巻き直し)政策」によって景気回復を成功させたと思っているのではないでしょうか?しかしそれは正しくありません。景気回復という面にのみ着目して言えばこの政策は殆ど功を奏することはなかったのです。そして追い討ちをかけるように37年にアメリカは再び恐慌に襲われます。(37年恐慌)

内需拡大の見込みは少なく、更に欧州では戦火が拡大し、大量消費される工業製品も買ってくれる見込みはありません。しかし、あるものに限っては需要がありました。そうです武器です。とはいえ当時のアメリカは交戦中の国家に対して武器を売ることはできませんでした。「中立法」の存在です。第一次大戦への参戦を「無益だった」と考えたアメリカ政府は1934年に委員会を発足させ、何が原因で欧州戦線に参戦せざるを得なくなったのかを究明しようと試みました。(委員長の名前から「ナイ委員会」と呼ばれる。)その結論として「軍需産業や資本家が利益を狙って武器などを輸出した」ことがあるというものが導き出されます。そして翌年に最初の中立法が制定されます。ここで禁止されたのは武器弾薬の輸出のみでしたが、翌年の改正では交戦国へのローンも禁止され、更に翌年の改正では石油などの戦争基準資源の輸出をも禁止されることとなります。また国民世論としても欧州戦線への参戦は殆ど支持を得られていませんでした。事実F・ローヴェルトは1940年の大統領選で公約の一つに「子どもたちを戦場に送らない(欧州戦線に加勢しない)ことを掲げて当選しているのです。(因みに同国史上初の大統領三選だった)

とはいえ彼の内外政策は3選を迎えるより以前からヨーロッパにおける戦争への参加を狙うものとなっていました。勿論軍需生産による景気回復を目論んでのことです。選挙前の39年には中立法を改正し禁輸条件を緩和し、更に当選から間もない1940年末には参戦の可能性を慎重に否定しながらもヨーロッパにおける戦いがアメリカの安全と不可分であることを訴える演説を展開(いわゆる「民主主義の偉大な兵器廠演説」)します。アメリカが参戦することの大義名分を訴えるのが目的でした。

そして翌年の末に真珠湾が奇襲されると「リメンバー・パールハーバー」を旗印にいよいよ大戦に参加していくことになるのですが、それ以前からルーズヴェルトは戦争に参加する手筈だったのです。のちに元大統領のフーヴァは彼を「対ドイツ参戦の口実として日本を対米戦争に引き込んだ狂気の男」と揶揄しています。未だに「陰謀論」が論じられることの多い真珠湾での一件ですが、日本の行動を察知しながらも動かなかったのは事実のようです。そもそも戦争における「奇襲」は前例の無い非道なものだったのでしょうか?実はそうでもないのです。独ソ戦のときのドイツもそうですし、もっと言えば当のアメリカとて1916年の対ドミニカ戦争では奇襲の末に占領しているのです。確かにハーグ陸戦協定には宣戦布告条項がありますが、あまり重要なものとは思われていなかったです。事実イギリスも「奇襲」によって日本にマレー半島を攻略されていますが、イギリスは取り立ててそのことを問題視しませんでした。ではなぜアメリカがそれを極度に問題視したのかというと、世論誘導のためなんです。「日本は非道な国だ」というイメージを持たせて開戦へと輿論を向かわせるための策略の一種だったのです。(だいたいハーグ陸戦協定を破ることに定評のあるアメリカがこれを騒いでいる時点で笑止千万といったところですが^^;)

3、日本の世論
政府レベルでは日米開戦について比較的慎重派が多かったのは先述したとおりでしたが、日米を取り巻く当時の日本の国内世論はどうだったのでしょうか?実は日米開戦は多くの国民に望まれたものだったのです。勿論それはメディアによる洗脳の所以ではありましたが、とかく多くの国民の総意としてはそのような傾向にあったのです。では日米開戦当時の首相である東條英機は日米開戦論者だったのでしょうか?実は違うのです。前にも言ったように東條は陸軍大将の出身であり統制派と呼ばれるグループに属している人間でした。陸軍は大陸での戦線拡大にこそ比較的積極的でしたが、日米開戦に関しては寧ろ海軍の意向が強く働いているのです。(海軍善玉・陸軍悪玉という構図が必ずしも正しくなことこはここからも明白)

東条英機は元より政治に興味が無く、取り立てて自らの思想も持たない典型的な事務官僚という性格が良くも悪くも強い人物でした。恐らく本人は元より、周囲の誰もが彼が首相になるとは思いもしなかったことでしょう。東條英機が政治に初めて関わったのは陸相となった1940年のことでした。その1年後内閣を投げ出した近衛文麿の後釜として彼は首相に任命されることとなるのですが、天皇陛下からの詔勅は「日米開戦の阻止」であり、東条英機内閣は日米の緊張関係修復を目的としてスタートします。東條英機は貧乏くじを引かされていたと言っても過言ではありませんでした。たしかに軍部に対して東條は一定の発言力を持っていましたが、それでも高まる開戦論を押さえ込むほどの力があったとは考え難いですし、だいたい先述の通り世論は日米開戦ありきで動いていたのです。事実なかなか開戦に踏み切らない東條内閣を口汚く批判する風潮も少なからずありました。そこに「ハル・ノート」の登場です。日本を中国およびインドシナから全面撤退させる一方、日本の求めていた経済封鎖の解除については明言していない不当極まりこの通達を受けた日本政府は苦渋の決断で「開戦」へと踏み切ります。勿論ハルノートが最後通牒ではないという見方も出来ますが、恐らくたとえこれを日本が受け入れたとしてもアメリカは何か次の手筈を踏んできたでしょう。だって日本を戦争に仕向けることが目的だったのですから。

―参考文献―
・フーヴァ元大統領が批判:「ルーズヴェルトは狂気の男」(産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm
・いわゆる「A級戦犯」(小林よしのり)
・国家の品格(藤原正彦)

ということで冒頭のクイズの答え、実は②が正解だったんですね。長くなりましたがとりあえず今回のところはこれまでということにします。今日は午後から美術館&温泉に行ってくる予定なので、この辺でとりあえずお暇します。

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