2011年12月7日水曜日

この「閉塞感」こそ好機である!

うちの研究科で自主シンポジウムを開催するらしく、つい先日はそのテーマ決めのための話し合いをやってたんだけど、その時,今の若者の話しに話題が及んだ。敢えて「若者の」という言い方をするのにはちゃんと理由がある。前にも言った通り、うちの学科には社会人生が多くて学部上がりの若手が少ないので、若者=自分たちというワケではないのだ。事実,その時も若手の院生は僕を入れて3人のみだった。(もっと細かく言えば学部上がりの現役生はそのうち2名である)

最近,若者というより社会全体に「閉塞感」みたいなのが漂ってる...みたいな言い方を色んな人が言ってて実際僕も感覚的にそれは分からないでもない。ただ、それが何なのか?とパッと聞かれると答えに窮する部分はある。(まぁ見えないからこその閉塞感なのではないかと言われればそれまでだが、そこはとりあえず置いといて...。)ただ、何にせよ悲観的な空気が目立つのは確かなことだろう。(そしてこういう時には過激な人物・団体が支持を得ることが少なくない。)

たとえば「ALWAYS~三丁目の夕日」の舞台となっている時代であれば、何となく今日よりも明日が良くなるという漠然とした希望があったのだと思う。しかし、もう日本で高度経済成長みたいな分かり易くてダイナミックな「前進」は起きないだろうし、それ自体は別に悪いことではない。だいたい国家の経済成長にはある程度の限界があるのだからしょうがない。だいたいこの論議は、そもそも幸せの尺度を‘カネ’のみに絞っているが故の帰結でもある。そもそも先述した高度経済成長とてその裏には公害などの負の側面も存在するのであり、このように見方を変えれば評価も変わってくるのは言うまでも無いことである。要するに今の日本とて他の尺度で見ればまだまだ良くできるところはたくさんあるということだ。(尤も「経済」にのみ言及しても、アジア市場での連携をうまく進められれば、まだ伸び代はあるのだが...。)

そういえば最近の若い人には夢がないみたいな話しもたまに聞く。その真偽はともかくとして、これは一体なぜだろう。僕は案外,メディアと教育のせいなんじゃないかと思う。メディアも教育も日本の未来に関して悲観論に走り過ぎているのではないか?しかしまぁメディアはテレビを消してニコ動でも付けときゃいい話だし、新聞だって取らずにこのブログを見ててもいいワケだからほっといてもいい。今,対処すべき問題は教育だ。誰だって否応なしに学校には行かなきゃいけないからだ。

僕自身小~高校時代を振り返って学校で自分の国についてどう聞いていたかと考えたとき、成程あまりポジティブな話を聞いた思い出がない。歴史に関しても今のことに関しても、そしてこれからの話にしても悲観論を多く聞かされた記憶がある。しかもその悲観論は「だからこうしていこう」という展望とともに語られるのではなく、その悲観論はただ悲観論としてのみ語られていた。今の学校現場がどうなっているかは直接分りようも無いが、少なくとも碌なもんじゃないのだろうというのは何となく予測できる。何にせよ、今の教育ではこの国の未来は暗くなる一方だ。橋下のやろうとしている教育改革は論外としても、今のこの国の教育を改めなくてはならないのは言うまでも無い事実であろう。

それから一つ断言できることがあるとすれば、この国の現状は言うほど悪くないということだ。たしかに問題も多いが、それらは克服できないものではない。そしてそれらを克服するポテンシャルを我々日本人は持っているはずなのだ。実際日本という国は、明治維新と異国の脅威、戦後の焼け野原からの復興と、幾度も‘国難’と言うべき事態を乗り越えてきた。今は大きな壁の前に立たされているとしても、我々には力がある。困難を前にして喚くのは勝手だが、自分の持っているものまで見失っていてはいけない。そしてこの壁を乗り越えたとき、もう一度,日本は真に世界に誇る国として君臨できようし、アジアは元より世界のまとめ役にすらなれるはずだ。この国は...まだ日本は終わってないし、終わらせるワケにはいかない。僕らにはその契機を作り、次の時代に紡いでいく義務がある!

まるで演説のような文章を今日は書いてしまったのですが、最後まで読んで貰ってどうもありがとうございます。そんなところですが、今日はこれにて失礼します,ジベリ!

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