2014年12月11日木曜日

いわゆる記者クラブについて



今日は前々回連載の補足記事を1つ書いておきたいと思います。いや実は書きたい記事ではあったんですけど、地方紙主題の連載内容とはちょっと違うかな?と思って取り上げなかったんですよね。ただ最近になって選挙をめぐる報道を見てると「やっぱり書かなくては...」と思ったのも事実ですし、そして極めつけはこれですよ。

・選挙監視団を組織せよ。(白川勝彦)
http://www.liberal-shirakawa.net/tsurezuregusa/index.php?itemid=1657#m

白川さんというのは元自民党の国会議員であり、国家公安委員長を務めたこともある人物なのですが、そんな彼が不正選挙をはっきりと疑っているのです。

これまで、いろんなところで不正選挙という人がいたが、私はこれにあまり同調しなかった。具体的な事実に基づいた見解でなかったからである。しかし、いまでは不正選挙という疑いをもって、今回の総選挙を見なければならないと思っている。集計作業の段階でコンピュータを操作すれば、どのような結果を出すことも可能だからである。しかし、この謀略には最大の危険・弱点がある。コンピュータの操作はデジタルであるが、実際の開票作業は、極めてアナログであることだ。しかも、開票作業には、全国に多数あり、かつ立候補関係者が立ち会うからである。いちばん末端の開票作業現場の監視を徹底的に行えば、この謀略を暴くことができるのだ。

まぁ以前僕が言っていた国際監視団の要請にまでは言及していないようですが、ともあれ元自民党の議員さんからこんな話が出ること自体が極めて異例ですし、そもそも殆ど身内のような人からこうして‘暴政’を危惧する声が出ているというのが今の安倍政権の異様さを反映しているとも言えるでしょう。そしてこの記事の前半、ここで白川さんが言及しているものこそメディアと権力に関わるものなのです。

いわゆる記者クラブ制で、第二権力と第四権力の癒着・結合関係が尋常でないのは、周知の事実である。(中略)かつての自民党は、第二権力との癒着・結合関係を否定しなかったが、それ以外の権力との関係には、細心の注意を払っていた。下手をすると、命取りになることを知っていたからである。安倍・自公“合体”体制では、第一権力と第二権力と第四権力が、深いところで完全に癒着・結合しているのである。そのような権力構造の中で、いま総選挙が行われていることを、私たちは認識しておかなければならない。そのような認識に立てば、“自民党300議席超え”という、嵐のような報道のカラクリが読み解けるのではないか。

ちなみに白川さんの言っている第二権力というのは行政のことであり、第四権力というのはマスコミ・報道を指すもののようです。そして残りの第一と第三は何かと言うと第一が政治であり、第三は司法を指しているようです。ともあれ選挙戦がまだ始まったばかりの頃から「自民300議席越え」を大手メディアが喧伝していた背景に、メディアと政権の癒着があることは想像に難くありません。特に気になるのが11月26日付の日刊ゲンダイのこのスクープ。

・有権者はいいのか? 無党派層が棄権なら「自民大勝」の悪夢(日刊ゲンダイ)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/155224

この記事の1ページ目、一番下の段落に、驚きの一文があるのです。

安倍首相を支えている大新聞は、低投票率にするために、わざと選挙前に「自民300議席へ」という記事を1面に掲げる予定だという。無党派層に「もう勝負はついた」「投票に行ってもムダだ」と諦めさせる狙いだそうだ。


・写真はこちらのツイートより

ゲンダイの記者さんがどのようにしてこの情報を掴んだのかは分かりませんが、このスクープは本当でした。公示から2日後の12月4日の大手紙朝刊の一面には本当に「自民300議席」という文言が踊っていたのです。(上写真参照)何故このようなことが起きるのか?本当に談合しているからでしょう。大手紙は今や完全に政権のスピーカーと化してしまったのです。そしてこの腐敗したシステムを支えるものの1つが記者クラブといったところなのでしょう。今日の本題はまさにそこなのですが、本論に移る前にもう1つ見て欲しい記事があるのです。

・(再掲) 2012/05/30 【読売・押し紙問題】「押し紙を告発する者は手段を選ばずにつぶせ、ということ」 ~黒薮哲哉氏、新聞業界のタブーを語る(IWJ)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/17213

これはご存知、フリージャーナリストの岩神安身さんのHPのページからなのですが、僕が連載記事「地方紙の逆襲」の終盤で、いわゆる「押し紙」の話をしたのを覚えている方はいらっしゃるでしょうか?押し紙というのは大っぴらに言えば読まれないことを前提にしたものであり、「部数」としてはカウントされているものの、実際には速やかに古紙として第二の人生を歩むことが予め定められている新聞のことなのですが、これはれっきとした新聞業界のタブーの1つなのです。記事の中で黒薮(くろやぶ)さんはこのように語っています。

「押し紙は明治時代からあった。しかし、戦後の専売制度で、新聞社と販売店の関係が強化された」と語る黒薮氏は、近年の不景気で販売店が負担を抱えられなくなった、と指摘。さらに、「新聞社が公称部数の上乗せのため、補助金を出している」と新聞業界のグレーな部分に言及した。

大前提として踏まえておくべきことは、新聞社と販売店の間には、歴然とした力関係があるということです。だからこそ、この記事に出てくるような無茶苦茶な事例がまかり通るのです。加えて言えば、この悪しき風習は、広告代理店の共犯によって成り立っているということも理解する必要があります。もともと広告代理店は新聞社と近しい関係にあるところが多く、それであるがゆえに起こることでもあるのですが、両者は「水増し」に関して結託しているのです。そうして新聞社及び広告代理店は水増しされた広告料を依頼主から回収しているのですから、もはやこれは詐欺と呼んでも良いレベルなのです。とはいえ、企業がそれを払うのにも理由があります。最近は折り込みチラシでパチンコ店が多くなっているのもその影響でしょうか。要するにある種の「口止め料」としての働きもしているということです。新聞社、広告代理店、そして企業。それらが三者三様に得をするという、どこまでも黒いシステムが出来上っているのです。



とはいえ、それもいつまで続くのかは大いに疑問です。そもそもテレビ同様に新聞の広告も気が付けば胡散臭いものが多くなっており、「新聞に載っている=信頼できる商品」という図式は成り立たなくなっていますし、そもそも新聞(特に全国紙)は着実に読まれなくなっていっているので、その影響力は無くなる一方ですからね...。ある日誰もその新聞を読まなくなり、印刷する新聞がそのまま全て押し紙に変わるようなことになるとしても、それでもこのバカげた茶番を続けるんですかね...。


1、記者クラブとは何か?
それでは本題に移ります。まず記者クラブとは何かについて、軽く説明していきたいと思います。記者クラブと言うのは、実はこれ日本独自のもの(※他にはガボン、ジンバブエに存在。またアメリカでもホワイトハウスや連邦政府の官庁、国連本部には同様のシステムあり)なんですが、これがいつ頃形成されたのかというと、なんと明治時代なんですね。(共同新聞記者倶楽部)当初は取材の自由を勝ち取るために団結して闘っていた組合のようなものだったようであり、少なくとも権力と癒着するような腐ったものではなかったようです。

しかし大東亜戦争の始まりを機に、記者クラブはその性格を一変させます。まず1941年の5月には新聞統制機関である「日本新聞連盟」が発足し、およそ半年後の11月下旬には「新聞の戦時体制化」が決定。日米開戦後に新聞連盟の設けた「記者会規約」により加盟は記者個人から会社単位に改められることとなります。日本のジャーナリズムの問題点としてよく記者よりも会社を重視することが挙げられますが、その悪しき伝統はここから始まったのかもしれません。かくして次第に記者クラブは御用団体と化していくのでした。小磯内閣発足時(1944年)には朝日新聞社出身の緒方竹虎が国務大臣兼情報局総裁に就任し、検閲を緩めようとはしたのですが、どうやらこの頃には新聞は完全に萎縮しており、規制緩和を活かす力は最早残っていなかったそうです。

戦後GHQの諸改革の一環でこうした記者クラブのあり方は見直されることとなるのですが、ジャパン・ロビー(今で言うジャパン・ハンドラーズの前身のようなものと考えて貰えれば相違なし。日本を裏から操って、アメリカの国益としようとしている人たち)の意向でその後この方針は軟化。記者クラブは記者クラブは超法規的な措置として受け入れられていくこととなりました。ちなみに元々新聞記者のみで構成されていた記者クラブにテレビやラジオが参入を認められたのは1970年代のことでした。記者クラブはその後、公然と取材に対する指揮権を認められるようになり、権力との馴れ合いも徐々に深まっていくこととなります。


2、問題点
記者クラブの問題点として、真っ先に指摘されるのがその閉鎖性であります。「クラブ」という言葉からも分かるように、ここには許された人しか入れません。ジャーナリストなら誰でもという訳ではなく、新聞社と通信社とテレビ局の記者しか現状では入ることができず、記者会見にすら出席出来ないのです。このことが結果として一部メディアに情報が独占される事態を招いているということは、言うまでもないでしょう。

2つ目には、上記のような閉鎖性の結果として生まれる馴れ合い体質があります。冒頭に挙げた写真のように似たり寄ったりの記事が全国氏に並ぶのは、まさに報道各社の馴れ合いの産物だと言えますし、また取材元である権力との馴れ合いにも甚だしいものがあります。2000年の森内閣のときのいわゆる指南書事件がそれを端的に示しているいい例ですし、或いは3.11後の会見で東電の責任者に対して批判的な質問をしなかった大手メディアの姿勢もその成れの果てだと言えるでしょう。



元ワシントンポストの記者であり、現在はフリーランスで幅広く活動している上杉隆さんは「メディアの横並び意識を下支えしているのが記者クラブだ」と批判していますが、まぁ実際その通りなのでしょう。権力へのアクセスを許された大手メディアの記者たちは、ある種の特権階級のような意識を強くし、さながら自分が世界を動かしているような錯覚に陥っているのかもしれません。しかし、そもそもジャーナリストのあるべき姿は権力と対峙することではないでしょうか?また多くの記者は会社に忠誠を誓うのですが、本来忠誠を払うべきは「真実」であってそれ以外の何物でもないのです。


3、新しい風
記者クラブは何度も問題視されたものの、その後も現在に至るまで存続しています。しかし、記者クラブのみが門戸という状況は2009年のある出来事により変わり始めます。そうです、政権交代です。当時金融担当大臣だった、我らが亀井静香先生はフリーの記者を対象とした会見を別個に設けましたし、このような動きは他の省庁でも見られるようになりました。こうした背景には予てより記者クラブ廃止を提言していた小沢(一郎)さんの意向も少なからずあったのかもしれません。

2012年衆院選の敗北やそれに伴う安倍内閣の発足はこうした流れを止めるのではないかと言われており、実際秘密保護法の制定などで情報統制に動きつつあるのは間違いないのですが、それでこの動きが止まることはないでしょう。記者クラブは官僚制とともに自民党のヘゲモニー体制を下支えする基盤の1つなのかもしれません。しかし、一度動き出した「革命」の狼煙を消すことは出来ません。大義はこちらにあるのです、闘う意志を持ち続ければきっといつか変化は起きます。そう信じて戦っていこうではないですか。そんなところですが、本日はこれにて失礼します,ジベリ!


上杉 隆「官報複合体=記者クラブを解体せよ!」(月刊日本)

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