2012年8月13日月曜日

2つの事件と関東軍

ということで連載は本編に戻ります。今日のテーマは2つの事件、つまり5・15事件と2・26事件の細評とその意義、そして丁度その頃大陸で半ば暴走状態にあった関東軍とその背景について論じていきたいと思います。

1、問答無用
1932年5月15日、若手の海軍将校らが当時の首相である犬養毅を暗殺するといういわゆる「5・15事件」が勃発するのですが、この背景については教科書にもあまり書かれることはありません。前々回お話したように、満州事変はそもそも関東軍の‘独断’で実行されたものであり、正直なところ緻密な計算があったでも壮大な国家的計画があったでもありませんでした。当時の首相である若槻礼次郎も、そして暗殺された犬養毅もこの軍事行動については批判的で、満州国の認証をしないままでいました。一方軍部やそれに近い軍閥の政治家の多くは満州での関東軍の‘躍進’に歓喜し、更なる中国大陸での攻勢と軍部の権限拡大を求めていました。マスコミは軍部礼賛の傾向を強めており、それに踊らされるかのように国民の多くも更なる戦争を渇望しているきらいがありました。そうした軋轢の中で起こったのがこの事件だったのです。

犬養毅は孫文とも交友があったことなどから分かるように親中派であり満州事変後も水面下で日中の関係改善に勤めていた人物でした。また政党政治の確立に尽力した立役者で、「憲政の神様」と呼ばれることもあったと言います。軍部の政治介入を嫌う犬養首相の存在は軍部にとっては邪魔な存在であり、また満州での利権獲得に躍起になっていた新興の財閥からも疎んじられるところであったといいます。海軍将校らを中心として引き起こされた同事件ですが、武器や資金は思想家の大川周明からの援助など民間で調達されたものであり、その首謀者は実際のところあやふやです。一説によれば財閥や資本家がスポンサーになっていたのではないか?と言われてさえいるのですが、その背景にはこうしたことがあったのです。また、あまり知られていないことですがこの事件には民間人も多く参加しており、犬養毅邸のほかにも警視庁や日本銀行などが襲撃されています。その他農民決死隊なる別働隊が停電を狙って都内の変電所を数カ所襲撃しましたが、設備の一部を壊しただけで停電は引き起こせませんでした。

襲撃に来た青年将校らを犬養毅は「君たちの意見を聞こう。話せば分かる。」と毅然とした態度で出迎えますが、「問答無用」の一言とともに銃撃されてしまいます。勿論犬養毅という人物がまったく問題のない人物で、一貫して軍拡に反対してきた人物かというとそうでもありません。浜口内閣時代に全権の若槻礼次郎をしてロンドン海軍軍縮会議で軍縮を決めてきたとき、「統帥権干犯」を理由に政府を攻撃した中心人物の一人が犬養毅だったのです。(因みにもう一人は鳩山一郎)彼は結果として軍部に統帥権をカードとして使えることを教えてしまい、結局は軍拡を求める彼らを勢い付かせてしまったのです。その後一命を取り留め、一度は回復を見せた犬養首相ですが結局その日の深夜、この世を去ることになりました。享年76歳でした。

現役首相の暗殺という前代未聞の事件にもかかわらず実行犯らには最高で15年の禁固刑が科されたのみで、それ以上の重罰を科せられることはありませんでした。この量刑の甘さがのちの2・26事件を誘発する一因となるのですが、ともあれおよそ8年続いた政党政治はここに終わりを告げることとなり、軍部の発言権を認める挙国一致の内閣が形成されることとなります。

2、北一輝の思想
先述のとおり事件の首謀者が大罪に問われなかったことなどもあってか、軍部の権限拡大はその後も徐々に拡大を強めます。一方政党は死に体にありました。もともと共産主義革命などの‘国体変革’を防止するためのものだったはずの治安維持法は言論の自由を奪うものとなり、そしてそれが政党政治の土壌となる世論を否定するものであるにもかかわらず多くの政治家がむしろこの法律に守られることを欲した結果です。(先述した犬養毅や若槻礼次郎、或いは浜口雄幸といった比較的良識派の政治家でさえ、そうした傾向が皆無だったとは言い切れません。)

そんな中、国家主義運動は軍部のみならず民間でも広がりを見せます。その背景に欧米諸国でのファシズム勢力の拡大があったのは言うまでもないことですが、それとは別の要因があったことは見逃せません。つまるところ、治安維持法などによって‘弾圧’された共産主義ないし社会主義が、国家主義という身ぐるみを纏って台頭してきたのです。北一輝もその一人ではないかと僕は考えます。彼の思想や理念は単純に国家主義で片付けられるものではありません。この時代の国家主義者たちが軒並み天皇の威を借りた錦旗革命を主張したのに対して彼はいわゆる「天皇機関説」に基づく立憲民主制を想定しており、しかも一定以上の私有財産を認めないなど社会主義的な側面も多々あるものでした。三島由紀夫など彼の思想や人物像に興味・関心を持った人は右翼・左翼を問わずして少なくありません。戦前日本の最大の革命家は、実は彼なのやもしれません。(ただ三井財閥などから大金を受け取っていたという話しもあったりして、悠々自適に暮らしていたといいますから、その辺どうにも胡散臭い部分はあるのですが...。因みに彼が1923年に発表した「日本列島改造大綱」は、図らずも戦後アメリカが作成した日本国憲法でその半分以上が実現されることとなります。)

3、二・二六事件
 5・15事件から4年後の1936年冬、ついに事件は起きます。5・15がテロに近い色合いを持ったものだったのに対して2・26は軍主導のある程度計画的なクーデターであったと言えます。陸軍の皇道派(先述の北一輝らの影響を受け、天皇親政の国家改造を目指した派閥)の影響を受けた青年将校らが1000人以上の兵士を率いて首相の岡田啓介を含めた大臣ら数人の襲撃を決行します。邪魔者を排除して皇道派が主権を握り、天皇親政を実現しようと試みたのです。計画ではそののちに財閥のトップの襲撃も想定されていたそうですが、こちらは実行には至りませんでした。(北一輝と三井財閥との関係が何か影響していたのかもしれませんが、ここはあくまで憶測です。)

しかし政府と軍部はこれに共鳴することなく鎮圧に向けて動いたため、クーデターは3日で鎮静化します。事件収束後、実行犯の多くは部隊に帰属するなど、やはり重罰は適用されませんでした。(その後最前線に送り込まれて戦死した者は多かったですが...)しかし‘理論的首謀者’とされた北一輝と西田税(みつぎ)には死罪が言い渡されます。また陸軍内でのパワーバランスにも変化が生じます。事件を主導した皇道派は失脚することとなり、一方東條英機ら統制派の発言権は強まることとなりました。

三島由紀夫を筆頭にこの事件を評価する人も少なくはありませんが、果たしてどうでしょうか?立ち上がった兵士たちの多くは本当に純粋に憂国の意から事件を引き起こしたのだろうとは僕も思います。しかしそれと結果がどうであったかはまた別の話です。2・26事件で犠牲になった人物も犬養毅同様に、どちらかと言えば良識派の人たちでした。恐慌から日本経済を建て直すのに大いに貢献した高橋是清もその一人です。非常に悲しいことですが純粋な人ほど、誰かに利用されて間違った行動を起こしがちですから...。どんなに真摯な思いがあったとしても、それは正確な現状把握を無くすればただ虚しいだけのものになってしまいます。(尤も「滅びの美学」を愛する三島さんは、寧ろそれだからこそ惹かれるものを感じたのかもしれませんが^^;)

4、関東軍と麻薬ビジネス
皆さんそろそろ不思議に思っていると思うのでここでそのことについて説明したいと思います。冒頭で述べたように関東軍は半ば‘暴走’状態にあったワケですが、では彼らの資金源はどこにあったのでしょう?実は麻薬なんです。アヘンを売り捌くことによって得た資金を元手にして軍事行動を遂行していたのです。その中心人物の一人で阿片王の名を冠したのが里見甫(はじめ)でした。彼は戦後の極東軍事裁判(東京裁判)で中国にアヘンを蔓延させた罪を問われ、A級戦犯とされるのですが、本人の「やっていない」という発言を真に受けるかのように、調査もされることなく無罪放免となりました。詳しくはまた後に書きますが、どうやら裏取引をしたようです。(この事実だけでも東京裁判の正当性なんてあったものではないことは明白ですね...。因みに彼が作った満州国通信社は現在の電通の全身となるものです。この辺の関係性についてはまたの機会に改めて説明しますが、とかく満州におけるアヘン権益を巡っては彼のほかにも例えば岸信介や児玉誉士夫といった戦後大きな権力を握った面々が関与しており、つまるところ現在のいわゆる裏社会を構成しているのは実は満州のアヘンを巡る人脈の流れを汲む人たちだったりするのです。

5、今日のまとめ
真相を知れば知るほど何か鬱蒼としてきて決して晴れやかな気分にはならないのですが、ともあれ事実の把握をなくして現状の打破はあり得ないので直視する他はありません。次回はどこをテーマにするかというと、この時代に‘反戦’を理論立てて主張し孤軍奮闘した一人のジャーナリスト(ないし思想家)のお話しを中心にしたいと思います。それでは今日はこの辺で失礼します,ジベリ!

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