2012年8月12日日曜日

補足:治安維持法改正の細評

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こないだの「普選・治安維持法体制」に関する記事の中で治安維持法の2度の改正について軽く触れたのですが、その細評について教えてほしいというメールが来ていたのでお答えしたいと思います。今回の連載は内容が広範な上に複雑なので、質問などがくればこうして適宜に解説を加えたいと思います。(おそらくこの調子で最後まで殆ど文字ばっかりの連載になると思うのですが、是非とも一読して貰えたらなと思う次第です。)

1、1928年の改正
まず1回目の改正は制定から3年後の1928年に行われます。当時の内閣は陸軍出身で長州閥の田中義一でした因みに同改正案は当初、議会では否決されて不成立となり、その後緊急勅令として枢密院の諮詢(しじゅん)を経て成立するという特殊な経緯を辿ります。勅令に対する多数決は賛成が249に対して反対が170、つまり当時の議会は圧倒的な大多数を以て同改正案を可決したワケではなかったのです。そもそも議会で廃案になった法案を議会の閉会後に緊急勅令として制定する...という手法自体、完全な議会軽視であり、当時も大きな批判を受けるところとなったようです。(昭和天皇も田中内閣の姿勢を批判していたそうな...。)

改正の契機となったのは同年3月15日の共産党に対する一斉摘発でした。(3・15事件)全国で日本共産党員に対する検挙が行われ、およそ1600名が逮捕されたのです。しかし逮捕してみるとその殆どが共産党員ではなく単なる支持者であることが判明したのです。前回説明したとおり、そもそもの治安維持法は「結社」の取り締まりを目的としたものであり、組織に属さない個人を裁くものではなかったのです。

政府は「宣伝」取締法としての治安維持法の作り替えに向けて動き始めます。。ここでのポイントは①刑の引き上げ②目的遂行罪を設けたことの2点になります。①は国体変革を目的として結社を組織した者ないし指導した者に最高で死刑を科すとしたところ。違反者に対して極刑の適用を認めたことから、28年改正については①をクローズアップする人も多いのですが、実際には治安維持法違反のみを理由とした死刑は少なくとも国内では1件もありませんでした。寧ろ重要なのは②なんです。目的遂行材というのはつまるところ、国体変革(つまりは天皇制の否定)・私有財産制度否認を目的とした団体(主に共産党を想定)の運動に付与するとみなされたあらゆる行為を行ったものを処罰できるというものでした。要するに処罰の適用範囲を拡大したのです。(因みに昭和天皇はこの改正案の「死刑」適用の部分について難色を示したとか...。)ともあれ、もともと‘国体変革’というある種抽象的な概念のもとに治安維持法は作られたのであり、解釈によっては無限にその対象を拡大しうるものだったのです。そうした性格の法律が、この改正によって組織に属さない個人にまで向けられることとなったのでした。実際に同改正法は結果としてはむしろ共産党以外の人間に猛威を振るうこととなり、ひいては政党政治そのものの首を絞めることに繋がっていくのでした。

2、幻の35年改正
1930年代にも内務省と司法省は2度にわたって治安維持法の改正案を議会に提出しています。主たる目的の一つは共産党の外郭団体を取り締まることにありました。加えて増加する検挙者への対処として転向政策を盛り込もうという思惑もあったようです。やはりここでも主たる目的は共産党対策にあったのですが、肝心の共産党は宮本顕治らが逮捕された33年のスパイ査問事件などを経て35年に最後の中央委員である袴田里見の検挙によって一応の崩壊を見せます。にもかかわらず治安維持法は膨張を続けました。ここにおいて治安維持法はついに「思想の取り締まり」にまで拡大されます。33年には小林多喜二が逮捕されたのちに築地警察署で虐殺される事件が起こり、また同年には瀧川事件のように公権力が学説に公然と介入するような事態さえ起こり始めます。宗教団体への適用もこの頃より始まり、35年に国家主義運動に参加していた皇道大本が事実上の組織根絶を受けるという事態に発展した(第二次大本教事件)のをきっかけに内務省は「国体を否認する邪教」として多くの宗教団体の取り締まりを断行したのでした。(PL教団の前身であるひとのみち教団」もその一つだった。)これは宗教団体への統制の布石を作ることとなり、のちの宗教団体法制定(1939年)の間接的なきっかけとなるのでした。

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とはいえ、そもそも大本教に治安維持法が適用されたのはあくまで国家主義的運動やファシズム運動の抑制のための適用だったのです。(そして唯一の適用事例でもあるが...)皆さんご存知のとおり、30年代には5・15事件や2・26事件など若手将校や右翼活動家によるクーデターないしテロ行為が頻発した時代だったのですが、そうした者に対して治安維持法を適用する...という改正案が内閣から出されたことがあったのでした。しかし議会では反対意見が根強く、結果としてそれが汲み取られることはありませんでした。背景には恐らく台頭してきた軍部(主に陸軍)の反発を恐れていたところもあったのでしょう。政党政治はここにおいて既に言論の自由の保護者などではなくなっていたのです。(それどころか治安維持法によって自らの身を守ろうと考える者も少なくなかったようです...。)また人民戦線運動への対処の中で、反戦運動や自由主義者さえも治安維持法の適用内と見なす下地がここにおいて形成されます。こうした背景には5.15と2・26の両事件に起因して政党政治が殆ど存在感を失い、内務省や司法省に歯止めをかけられる存在が無くなってしまっていたことも影響していると思われます。ただでさえ脆弱だった日本のデモクラシーは、開花することなく息途絶えたのでした。


3、新治安維持法(1941年改正)
2度目の改正は日米開戦の1941年に行われました。(あまりに大幅な変容から「新治安維持法」としばしば呼ばれることがあります。)この前後に日本はソ連と中立条約を結んでおり、それを機に共産主義者が台頭してくるのを防ぐ狙いもあったと考えられます。この特徴の一つは30年代の適用拡大を既成事実化したことでした。宗教団体の摘発も強化することとなり、非戦・反戦を説く宗教団体の多くが取り締まられることとなります。(ここにおいて「国体変革」はついに反戦や非戦の思想までをも含むこととなったのでした。)創価学会の前身である「創価教育学会」のその一つであり、創始者の牧口常三郎は転向(思想の放棄)を拒否し44年の11月に老衰と栄養失調でこの世を去りました。(この頃はまだ創価もまともだったんですよ。)

ー参考書籍ー
2012年・中公新書:「治安維持法」(著者:中澤俊輔)
2005年・山川出版:「評説・日本史B」
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このように治安維持法は25年の制定後、ソ連との関係や軍部の台頭などの影響を受けて無制限に拡大していったのですが、政党政治は本来何をすべきだったのでしょう。まず第一に言論の自由を保証すべきではなかったのでしょうか?共産主義運動よりもむしろ不法な暴力を排除すべきではなかったのでしょうか...。そうすればあの無益な戦争すら回避できた筈なのです。戦争責任を一手に軍部に押し付けることはどうやら出来なさそうです。かくの如き悪法を内包し育んだ政党政治にも大きな責任があるでしょう。マスコミだってそうです。もっと反対の声を上げるべきだったのです。やはりそうして意味においても大東亜戦争の敗北は大日本帝国という国家の構造的欠陥に起因するものなのかもしれません。次回は本編に戻り、主に2つの事件と関東軍という最大の戦犯について書いていきたいと思います。本日はこの辺で失礼します,ジベリ!

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