2012年8月15日水曜日

石橋湛山の思想

皆さんご存知のとおり、今日は終戦記念日(というか敗戦日と呼ぶべきかと...)です。前回は日本が「15年戦争」につき進んでいく前後の2つの事件についてお話しました。流れで行くと今日からはいよいよ本題の大東亜戦争の話しになるのですが、今回の内容は若干スピンオフ的な位置づけになるかもしれません。皆さんは石橋湛山をご存知でしょうか?戦後短い間ではあるものの首相を務めたことのある人物なのですが恐らく殆どの人は彼のやったことはおろか、名前さえも知らないのではないかな?と思います。例の山川出版の日本史の教科書(2005年版)を念のため読み返してみましたが、365ページに‘公職追放から復帰した大物政治家’の一人として名前がチラッと出ているのみで、何をしたのかは全く書かれていない始末でした。しかし彼の思想は当時日本がとるべきであった指針の一つであったと言えますし、加えて混迷する今日の日本にとっても非常に有意義なヒントを与えてくれるものなのです。

1、生い立ちと略歴
石橋湛山は明治維新から20年ほど後の1884年、東京都の麻生区(今の港区)で日蓮宗の檀家に生まれます。幼少期を郷里である山梨で過ごした彼は1904年に早稲田大学の文学部哲学科に入学。そこでシカゴ大学でジョン・デューイ(経験主義的教育の第一人者であり、教育や公共哲学を学ぶ人間であれば必ず知っている人物)に師事していた経歴を持つ田中王堂に出会い、大きな感銘を受けたそうです。大学を首席で卒業した彼はその後1年間、特待研究生として宗教研究科に進学します。そして1908年には一度横浜毎日新聞社(現在の毎日新聞とは別のもの。因みに現在の毎日新聞社の前身は大阪毎日新聞)に入社しますがわずか1年で退職。その後、1年間の軍属を経て次は東洋経済新報社に入社、そこでジャーナリストとして頭角を現します。いわゆる大正デモクラシーにおいて吉野作造らとともにそのオピニオンリーダーとなり、論壇を大いに賑わせた彼は、その後戦中も一貫して日本の領土拡大政策や官僚主義に反対し、決して政府の抑圧に屈することはありませんでした。

戦後は吉田茂内閣のもとで大蔵大臣を務めますが、進駐軍の経費問題(アメリカは賠償として進駐軍のゴルフ場や邸宅建設の費用や贅沢品の経費などもせしめ取っており、それらの合計は国家予算の3分の1に相当した。)などでGHQと衝突した角で、就任から1年後の1947年には公職追放を受けることとなります。(表向きは東洋経済新報が帝国主義を助長していたという荒唐無稽な理由でしたが...)その後51年に公職追放が解かれて政界復帰したのちは鳩山一郎内閣の下で次は通産大臣を務めることとなり、そこでは中国やソ連との国交回復に向けて水面下で交渉を始めていました。

そして56年12月の総裁選に出馬した彼は初出馬にして決選投票で岸信介を破って見事首相に就任します。従米路線の岸信介が首相になることを期待していたアメリカはこのことに大きな衝撃を受け、大統領のアイゼンハワーは狼狽したとも伝えられます。彼は就任すると 「一千億減税・一千億施策」を柱とする積極経済政策と、政官界の綱紀粛正、福祉国家の建設、雇用の増大と生産増加、 国会運営の正常化、世界平和の確立など「五つの誓い」を発表し、翌年初めには全国への遊説を大々的に行いました。自らの所信をまずは国民に伝えようとしたのです。そして同時に有権者の声を積極的に聞いたそうです。民主主義を信条とする彼らしいエピソードと言うことができるでしょう。しかし全国10か所を9日で周るというスケジュールの無理が祟ったのか湛山は帰京後自宅で倒れてしまいます。脳卒中で2ヶ月の絶対安静との診断を受けた彼は「私の政治的良心に従う」として政治空白による混乱を防ぐため潔く退陣の決意を固めました。僅か65日の短命政権でしたが、こうした石橋湛山の姿勢は野党からも多くの賞賛を得ることとなり、社会党の浅沼稲次郎は「政治家はかくありたいもの」と手放しの評価をしています。(敵ながら天晴れというところだったのでしょう。)

それから政治活動を再開するまでに回復した彼は日中及び日ソとの国交正常化に向けて単身奔走し、一個人として異例の訪中・訪ソまで果たします。苦心の末結びつけた「石橋・周共同声明」(1959年)は、のちの国交回復のバイブルとなったとも言われています。その後も自民党内のハト派の重鎮として一定の発言力を持っていた湛山ですが1663年の総選挙では落選、それを機に政界を去ることとなりました。それから10年後の1973年、前年の日中国交正常化を見届けたかのように彼はその生涯に幕を閉じました。(享年89歳)

2、小日本主義
彼の思想の根幹にあるのは帝国主義の批判でした。日本を含む領土拡大を展開する列強を批判し、日本はそうした方針を捨ててこれ以上の領土拡大は勿論、これまで得てきた植民地すらも放棄することを主張したのです。(一切を捨つるの覚悟/1921)忘れてはいけないのは、湛山は何も道徳的意義のみからこうした植民地放棄を主張したのではないということです。植民地経営にかかるコストを鑑みてそうする方が利益になると考えた所以なのです。(大植民地帝国として知られていたイギリスですら19世紀には全体的に見ると植民地経営が赤字化していたと言われており、実際日本も朝鮮については最後まで赤字経営だった。)彼は植民地ではなく人的資本にこそ国家予算を投資するべきだと考えていました。今でこそ‘加工貿易立国’なんて言われている我が国ですが、その方針を示したのも実は他ならぬ石橋湛山だったのです。外に向けた拡大ではなく国内の経済成長を優先すべきである、という彼の主張は小国主義と呼ばれるものであり、当時の国家の主流であった「大日本主義」に対して小日本主義と呼ばれることもあります。

そしてこうした「植民地放棄」にはもう一つの狙いがありました。そのことが国際情勢に与えるインパクトです。日本がそうした姿勢を示せばその影響は他植民地にも飛び火します。そうするとどうでしょう?世界の流れは脱植民地に傾き、日本の国際的発言力も大いに高まると彼は考えていたのです。(大東亜戦争を植民地解放戦争であったと主張する人もいますが、やっぱりそれは一種の結果論であって正当性は希薄です。日本があそこまで広範に戦線を拡大したそもそもの狙いは資源獲得と経済封鎖の打破だったワケですから...。)

3、今日のまとめ
この記事を読んでもらっただけでも分かると思うのですが、石橋湛山の思想は今日でも十二分に通用するような非常に先見性に富んだものだったのです。東アジア共同体の話は別にしても、アジアのパートナーシップを強化することが益々必要になっている今日、産業の空洞化が進行している現在、そして一向に官僚主義から脱却できていない今、まさに石橋湛山が必要なんです。そうした意味においても彼は再評価されるべき人物だと思いますし、こういう人物こそ「国士政治家」と呼ばれて然るべきなのです。それからもう一つこの場で覚えておいてほしいのは、彼のように戦争に反対し、領土を拡大せずとも国家成長が出来ることを理論建てて主張していた人物が居たのだということ。(内村鑑三もお忘れなく!)にもかかわらず、そうした意見を汲み取ることが出来なかった...と。そこが重要なんです。どんな聡明な意見も、それを聞き入れる耳を持たない人の前では全く意味を成さないのです。これは民主主義国で生きる僕らが忘れてはならないことの一つだと言えるでしょう。



次回からはいよいよ大東亜戦争前夜、そして戦中~終戦までの流れを追っていくことになるのですが、明日からはデートということなのでしばらく連載はお休みですw後編は8月末~9月はじめにかけて書きたいと思います。まだ前編が終わっただけということですが、ともあれ読んで頂いてありがとうございます。今日はこれから下鴨の古本祭りに行くのですが、そのあとでもう一つ記事を書く予定です。しばしの間、失礼しますm(_ _)m

ー参考文献ー
・石橋湛山と小国主義(井出孫六:岩波ブックレット)
・冷戦を打ち破り世界平和を模索した石橋湛山首相(前坂俊之)
http://maechan.sakura.ne.jp/japanese_r/data/30.pdf
・石橋湛山記念財団
http://www.ishibashi-mf.org/index.html

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