2012年8月9日木曜日

新連載・大東亜戦争の真の戦争責任を問う

連載の告知をしたのが6月の末だったと思うのですが、皆さん覚えているでしょうか。そのときはたしか「なぜ日本は大東亜戦争という勝てる見込みのない戦争をするに至ったか?」という名前で登場していたと思うのですが、とかくあの戦争に至った経緯を考察し、なぜ日本があのような戦争をしなければいけなかったのか?ということを考えていくのが今回の連載の主旨であります。

・はじめに
言わずもがな1945年の今日8月9日は長崎に原爆(ファットマン)が投下された日であり、日本人のみならず世界中の人が忘れてはならない日なのですが、そんな日にこの連載をスタートさせるのは半ば意図的で半ば偶然といったところであります。というのも本来は8月6日、つまり広島に原爆が投下されたその日に連載をスタートさせたかったのです。原爆投下の意味についても今一度この連載の中で述べたいと思うのですが、それに先んじてこの場で鎮魂の意を込めて広島及び長崎で犠牲になった方々に黙祷を捧げたいと思います。そしてこの連載をあの戦争で犠牲になった我が国の先人たちに捧げます。あなたたちの犠牲の上にこの国があるということを僕は決して忘れません。そして二度と同じ道は歩ませないことを約束します。(2012年8月9日:Senichi)
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1、普選・治安維持法体制
言わずもがな大東亜戦争は東條英機や昭和天皇が急な思いつきで始めたものではありませんし、そもそも東條英機が首相になった時点では日米開戦は殆ど不可避のものとなっていました。当時のシンクタンクがどんなに計算しても勝算はゼロだったあの戦争ですが、一体どこで日本は出口の見えない連鎖する戦争の袋小路に自らを追い込んでしまったのでしょうか?これ理解するとき、そうした経緯の一つとして「治安維持法」を欠かすことはできません。日本史上最悪の悪法の一つに数えられる悪名高いこの法律は、なぜ定められたのでしょうか?制定に向けた議論は1920年ころよりはじまっていたようですが、制定されたのは1925年。当時の首相は憲政会の加藤高明、大正デモクラシーの真っ只中,「憲政の常道」による政党政治の確立期のことでした。

因みに法整備にあたって積極的に動いた省庁は司法省(現・法務省)と内務省という省庁でした。(今はない省庁なのでピンと来ない方も多いと思うのですが、戦前の日本政治史を語る上で欠かすことのできない省庁というのがこの内務省なのです。今で言えば公安調査庁と総務省と国土交通省などを合わせたくらいの省庁であると思って貰えればいいでしょうか?とにかくそのくらい広範な権限を持ったところであり、「省庁の中の省庁」と揶揄されることも少なくはありませんでした。)とはいえ両省の思惑が完全に同じ方向をむいていたかといえば、そうでもありません。簡潔に言うとすれば司法省は国内の国体改革思想を憂慮していたのに対し、内務省の第一の懸念はコミンテルンの影響にあったのです。ただ何れにせよ第一の念頭に置いていたのは結社の取締でした。その後の改正で適用範囲となる「宣伝罪」についても両省ともに草案に置いていましたが、あくまで言論の自由を重んじる憲政会の意向もあって同要項は削除、ここにおいて治安維持法はまず「結社」取締法として成立するに至ります。(余談ですが、では治安維持法が定められるまでは日本に結社の自由があったのかというとそうではありません。たとえば日本共産党は存在自体が非合法とされて弾圧を受けていました。因みに同法制定時、共産党は再建の途についたばかりで、実質1925年当時、日本に国体変革を目的とする結社は無かったのです。)

これと同じくして普通選挙制(衆議院議員選挙法改訂。25歳以上のすべての男性の選挙権を認めた)が制定されたため、両者を飴と鞭の関係で捉え、25年以降の国家体制を「普選・治安維持法体制」と揶揄することもあります。加えて実はこの年に「日ソ国交樹立」も実現されているため、コミンテルンを介しての宣伝行為・内政干渉を防止するための一種の防衛策であったという側面も少なからずあったと考えられます。(度合いの違いがあるものの、欧米諸国でもそうした狙いの法律が同時期に定められているのは事実です。当時最も民主的であると言われていたヴァイマール体制下のドイツでさえも‘共和体制’を否定する反国家的結社に対する取締法を整備していたのですから...。)

その後2度の改正(28年と41年)が加えられて処罰対象が拡大し、また同時期に結成された特別高等警察による拷問行為(「蟹工船」で有名なプロレタリア文学者、小林多喜二などがそれによって虐殺されている。)が激化していく中で同法は稀代の悪法と化していくのですが、少なくとも定められた時点ではとりわけて苛烈なものではなかったと言えます。実際、虐殺された小林多喜二にしても「量刑」自体は重くはないものでした。つまるところ事実としては、「治安維持法制定=言論の自由の死」ではなく、同法の制定に起因してじわじわと自由が失われていった...というのが実情なのです。そして大東亜戦争が始まる頃には言論の自由は殆ど死滅し、「反戦」の声が反映される可能性は消え去っていたのです。では、なぜそうした政府の‘暴挙’が許されたのでしょうか?それを知るために1920年代後半~30年代初頭の社会背景を確認しましょう。

2、昭和の大恐慌
1920年代前半、日本は第一次大戦のダメージを受けなかったことなどから日本経済はアメリカほどではないものの好景気の中にあり大衆文化も大いに発展、大正は比較的華やかな時代になりました。しかし末期の1923年には関東大震災が発生して首都圏は大打撃を受けます。(震災恐慌)更に昭和初年の1927年には金融機関の構造的未成熟などが招いたとされる昭和金融恐慌に見舞われ更に景気は悪化、そこに追い打ちをかけたのがウォール街の株価急落に起因する世界恐慌でした。生糸などの対米輸出に依存していた当時の日本経済は甚大なダメージを被ることになります。生糸の価格崩壊に加米の豊作に伴う米価下落も重なったため特に農村は壊滅的な打撃を受けたのでした。(そのため1929年の日本における大恐慌を昭和農業恐慌と呼ぶこともある。)そうした景気悪化の中で日本は1928年に山東出兵を決行,領土拡大による景気回復を目指すようになります。1931年には柳条湖事件をきっかけとして関東軍が独断で満州を制圧し、翌年には清朝最後の皇帝溥儀を擁立して満州国を建国。満州国の承認に若槻内閣は消極的でしたが一方で国民はこれに歓喜、メディアは軍部礼賛を活発にしてその一方で政府を「腰抜け」、「早く戦争をやれ」と囃し立てるようになります。(今でこそ平和を訴えて日本の戦争責任を執拗に書き立てるあんな新聞やこんな新聞も、当時はそんな風潮だったのです。)軍部や政府内の主戦派を活気づかせたのは一種の閉塞感であったということは紛れもない事実でした。

3、社会主義運動とファシズムの隆起
そうした閉塞的な空気の漂う中、日本においても2つのイデオロギーを異にする運動が芽生えます。一つにはソ連建国に伴う世界的な社会主義運動があり、もう一つにはそれへの反発と帝国主義への回帰,そしてナショナリズムの結び付いたファシズム運動の隆起ということになるのですが、どちらにせよ共通しているのはこう着した現状の打破を志していることとそれを支えている政権への反発がある...というところでしょうか?日本においても社会主義運動は大正~昭和初期にかけて活発化するところとなり、日本共産党をはじめとする社会主義系の政党・政治結社が多くこの時期に結成されますが、先述したような激しい弾圧を受けてこれは頓挫。のちに日本共産党の中心人物となる徳田球一や宮本顕治もそうした中で投獄されてしまいます。代わりに台頭したのが国家主義ないしファシズム勢力ということになるのですが、日本におけるそれは少々複雑な性格を持ち合わせます。つまり天皇の扱いです。彼らが敵視したのはあくまで政党政治であって天皇制自体は‘より強化すべし’と考えたのです。それゆえ彼らの思想を「昭和維新」と呼ぶ言葉あります。薩長政府によって半ば‘政治利用’される形で担ぎ出された天皇でしたが、ここで再びその権威を利用されることとなったのでした。(天皇の威を借りた彼らの革命論を「錦旗革命」と呼ぶこともあります。そうしたこともあって日本にはヒトラーやムッソリーニに該当する人物が出現しなかったんですね。)

何れにせよ、世間にこうした風潮が高まる中で起こったのが五・一五事件であり、そしてその流れを止められぬまま二・二六事件が発生し、そこに政党政治は完全な終わりを迎えることになるのでした。(次回へ続く)

ー参考書籍ー
2012年6月出版(中公新書):中沢俊輔・「治安維持法」

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