2016年11月26日土曜日

【週刊コラム】一滴の朝露、映るセカイ【第6回】

先週はややポップな内容でしたが、今週はどうしようか...そんなことを考えていた矢先、ある衝撃的なニュースが飛び込んできたのです。そしてどうしてもこれについて書かないわけには...と思いキーボードを打ち込んでいる次第。はてさて今回はどうなるのやら・・・


~烈士、フィデル・カストロ~
先日11月25日、キューバ革命の英雄にして長らくの間キューバを牽引してきたリーダーでもあるフィデル・カストロが逝った。享年90歳であった。今日はその歴史を振り返るとともに、フィデル・カストロという男の生き様に思いを馳せたい。




フィデルはスペインのガリシア人移民で裕福な農場主の家に生まれる。野球好きとして知られる同氏だが、それは子供時代からのようであり少年時代は野球に熱中していたという。その後、ハバナ大学に進学した彼は法律を学び弁護士となった。革命を決意したのは米兵が祖国の英雄であるホセ・マルティの像を汚しながら嘲笑している場面を見たことだったそうだ。当時のキューバはアメリカの事実上の傀儡国家であり、国民の生活は悪辣そのものだった。フィデルはそうした国を変えるために立ち上がったのだ。


しかし革命に至る道は平坦ではなかった。1953年の1度目の武装蜂起は失敗し、同志に多くの死者を出した。「歴史は私に無罪を宣告するだろう」、これはその事件後、捕縛され裁判にかけられたカストロが放った言葉である。もともと弁護士であった彼はそう自らを自己弁護したのである。その後恩赦で釈放されたカストロは国を出ることとなる。のちに同志となるチェ・ゲバラとの出会いもその最中だった。そして1956年、カストロは再び政府に挑む。激しい戦闘となりグランマ号で上陸した82名の有志たちのうち、生存者は18名だった。次第に国民の支持を得ていったカストロ一行は政府軍を打ち倒していくようになり、そして1969年、首都のハバナを陥落させて革命を成功させた。


意外と知らない人も多いが、この革命の時点でカストロは社会主義者でこそあったもののアメリカとの断交を考えてはいなかった。しかし1961年にアメリカはCIAを使いカストロ政権の転覆を画策。これがいわゆるピッグス湾事件である。これを受けてキューバ政府はアメリカとの断交を決意するとともに東側諸国との連帯に舵を切ることとなった。


ソ連崩壊後、キューバは支援国を失い窮地に陥るが、農業や教育、そして医療に力を注ぐことでこの危機を回避している。カストロは長らく権力の座にあったが、スターリンや毛沢東のような個人崇拝を推し進めなかったのも評価すべき点である。また広島を訪れた政治家の1人でもあった。これにはゲバラの勧めがあったという。オバマのように派手なセレモニーはせず、ただ黙々と1人の人間として訪問している。カストロが持ち帰った原爆の火は今もハバナで燃え続けているそうであり、キューバ国民の多くが広島について知っているという。


その後2008年にフィデル・カストロは権限を弟であり革命以来の同志もであるラウルに移譲し、最高権力者の座から退いた。そして2015年にはアメリカとの国交を回復させるなど近年のキューバはたしかな変革を迎えつつある。そうした意味でもキューバからは目が離せないところでもある。




しかしながらあの世でフィデルは何をしているのだろう。ホセ・マルティとは話せただろうか。ヘミングウェイとは久々に釣り勝負でもするのだろうか。或いはダイキリ片手に談笑しているのだろうか。ゲバラとは積もる話が山とあるだろう。2人が再び寄り添い合う姿を思い浮かべるだけで泣けてくるのは何故だろうか。


熱い男たちの談笑の中に僕も加わりたい気はするが、それはまだまだ先のことになるだろう。彼らが自分の革命を全うしたように僕もまた全うしなくては。戦いが終わり、この国に夜明けをもたらしたあとで伏見の旨い酒でも持って行こう。だからそれまで見守っていてくれはしないだろうか。今はそんなことを考えている。合掌。
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・ノート大公開!

ということで今日はフィデル・カストロについて熱く語ってみました。そう言えばいま我が家にはハバナクラブが無いのですよ。瓶に少し残っていたのを弔い酒に飲んでしまって今は空っぽ。これも近いうちに買いに行かねばなりませんね。僕はといえば最近は仕事が忙しくて休日は日がな一日寝て過ごすのがデフォというテイタラクで実のところまともに紅葉をまだ見に行けていないのでありますw まぁ明後日は休みですし、どこかに行ってみようかなとは思っているのですが...。ま、そんなところですが今日のところはこれにて失礼したいと思います。ジベリ!

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